骨折してから約一ヶ月が経過した。
その間に次々と内観ネタが押し寄せ、わんこ蕎麦状態で内観と気付きを繰り返している。
小さな気付きの直後にお試しのような出来事が起こり、パスしないと何回でも追試が与えられる。
まるで看護学校時代の実習のようだ。
あの頃は本当に大変だったけど、今振り返るとかけがえのない時間だったと思える。
渦中にいるときは苦しんでもがいてるんだけど、乗り越えてみれば幸せだったと思える。
そんなことを繰り返していくのかもしれない。
自分で自分のことができないこの状況は、いろんなことに気付かせてくれる。
今まで誰にも助けてもらわずに、それでいて誰かに認めてもらえるように頑張らなくちゃと、必死に歯を食いしばってた。
だけど今はどんなに不安や恐怖に怯えていようが、誰かに助けてもらうより他にない。
そこで初めてまる裸になって少しずつ人と触れて、それでも大丈夫だという感覚を体感することが出来た。
それと動けない状況や人に頼らないといけない状況は、自分の中の奥底にある「恐れ」と向き合う絶好の機会になってくれた。
私の場合、たくさん持っている「恐れ」の根本を探っていくと強い自己否定の気持ちを持ってることに集約される。
自己否定をしているから何か価値のあることをしたり人の役に立たないと誰にも相手にされないと思い込んでしまっていた。
そして出来そうにないような高い設定を自分自身に課してアップアップし、等身大以上の自分設定と素の自分を比較しては厳しく責めたてていた。
高い自分設定を保つために誰かと比べたり、誰かの過ちに過剰に反応して内心攻撃したり。
これを自分の親しい人に対しても平気でやっていた。
そういう自分の黒いところを直視できなくて、受け入れられないでいた。
自己否定してしまった原因になる事柄(幼少期や過去生に)がもちろんあったんだけど、私はその時に自分の本音を抑え込んでしまった。
「助けて」って言えなかった。
「嫌だ」って言えなかった。
本音を出してぶつかることが怖くてじっと耐えてやり過ごしたんだけど、それは大切な本当の自分を守らない行為だから、本当の自分は怒ってた。
「私を守って!!」と。
だけどずっとそれを反芻して、見つめていて、感じた。
弱くてもいい。
これは大切な私の持っているどうしようもない弱さだ。
これは大切な私だけの傷であり、世界のどこにもない私だけの傷だ。
本音は言えなかったけど、ちゃんと耐え抜いたじゃないか。
偉いやん!!
本音を言えなかった自分も、弱かった自分も、過ちを犯した自分も、どうしてもなんだかやっぱり好きだと本気で思えた。
私はようやく自分のことをまるっと認めることが出来た。
母と二人暮らしを始めてからよく私は「お母さんに何かあった時のために」という言葉を口にしていた。
だけどそれは「恐れ」から身を守るためのものであり、「自分が認められるように」なんとかしたいという無意識の現れでもあり、それと同時に言葉で自分自身を強く縛っていた。
こういった「恐れ」から身を守って自分の本音を押し込めるということを、無意識にずっとやっていたと思う。
「恐れ」から身を守るために誰かを批判したり、
「恐れ」から身を守るために正しいことか間違っているのかを誰かに教えてもらいたがったり。
自分の本音はその「恐れ」の中に巧妙に隠されていた。
それは正義か、それとも悪か?
本当の答えを知りたいと怯える気持ちの中には、悪に心まで侵略されてしまうのではないかという恐れがあった。
他の何かによって自分の心まで悪に染められてしまうような気がしていた。
自分の心まで汚されてしまうのを心ならずも許してしまった罪を悔いるような。
自分では自分を守りきれないと怯えていた私が握りしめていた最大の恐れだった。
まる裸でもなんとかやっていけることもわかったし、そろそろ「恐れ」から身を守るために自分を犠牲にするのはやめようと思う。
「恐れ」から目をそらさずジーーーーっと見てやる。
そして本当の自分の本音に従って生きていこうと思ってる。
そんな風にして自分の中の黒さを認めてから、周りの人を見る目もなんだか変化したみたいだ。
自分の黒さを認められないうちは無意識に人のことも正邪に分けて厳しくジャッジしてたから気がつかなかった温かみやその人らしさが、鮮やかな彩りを持って感じられるようになった。
今までずっと明るくて綺麗な色だけを必死で集めてた。
汚い色や黒い色なんて入れてはいけない、価値が下がるし染められたくないって心を縛っていた。
だけど、黒い色や薄暗い色も入っている、内包している絵の方が何倍も味わいが深いことがわかった。
それもこれも全部含めて私の描いてきた絵は素晴らしい。
そして誰かの絵に入っている黒い部分がつくり出す趣きを、愛おしく思ったりもする。