前回のブログでいろいろ語ったのだけども、→ココ
なんだかスッキリしない。
どうやらまだまだ未消化だったみたい。
何かのきっかけで感情が動いたら、内観をして心の動きを深く探り、原因となるものを突き止める。
その意味を芯のところで理解できたら、現象に対する自分の反応が変化していく。
だけど導き出した答えがズレていたりすると、速攻やり直し〜とばかりに同じようなことが訪れる。
今回は追試に落第、そして再実習を何度も繰り返した。
結局のところ、言い訳を全部取り除いてみると、
テーマは「私は母に自分の思いを受け取ってもらえないと、ハラが立つ」だったのだ。
なんだか恥ずかしいので事の詳細はカットさせてもらうけれど、
ようやく気がついたきっかけは母との些細なケンカだった。
すぐに謝ろうとしたけどそのまま口論みたいになってしまい、謝るつもりが逆に母を謝らせてしまった。
私はイライラムカムカした時はノートに気持ちを吐き出すように書いている。
怒りは正直に自分の本質を映し出すものなので、自分を鏡で見るという意味でそうしている。
次の日仕事から帰宅すると母はオムライスを作って待っていてくれた。
母は料理が苦手だから上手く出来なくて私に堂々と出せなかったけど、
本当は美味しいものを作って労いたかったんだとポツリと言った。
父はオムライスを作ると喜んで食べてくれたから頑張って作ってみたんだと照れて笑う。
二人で喋りながら食べたけど、大盛り過ぎて二人とも半分残した。
残りは翌日のお弁当になった。
そのあと気持ち吐き出しノートを点検してやっと自分の姿が見えてきた。
私は自分が出来ることを提供して喜んでもらうということによって自分の心を満たしたかったんだ。
要するに与えるふりして実はエネルギーを奪おうとしていた。
だから受け取ってもらえないとハラが立つんだ。
「こんなにやってるのに!!なんで!!!?」って
まるで砂金を受け取れと千にいうカオナシみたいに。
受け取ってもらえないと、
こうなる。
人間関係はエネルギーの交換の場であり、
攻撃したり責めたりするのは愛のエネルギーを奪うことなんだと知っていたつもりなんだけど。
頭でだけでなく心と体で理解出来た。
エネルギーが枯渇するから人から奪おうとする。
エネルギーがなぜ枯渇するか?
エネルギーが減ると信じているから。
自分のエネルギーを必死で守らないと減ってしまう。
自分がそうだから人からも奪われると思い込み、怖れから身を守ろうとして緊張していた。
ガチガチに握りしめないと、見張らないと、取り返さないと、管理しないといけない。
そして執着する。
まるで心の中が戦さのようだった。
それとやはり私は自分のことだけしか考えてなかったと反省する。
「自分の思い通りにして欲しい」ということに執着してて、それを押し付けようとしていた。
「こうして欲しい」ばかりに目がいってしまい何にも気がついていなかった。
オムライスを頑張って作ったのは、私の喜ぶやり方だったから母なりに無理をしたんだと思う。
何もかもわかったうえで受け入れてもらえて包んでもらえて、やっと私は自分の愚かさに気がついた。
自分かわいさに執着していると奪う愛に傾き、人を責めてばかりになってしまう。
それは地獄の世界であり、心の中に戦さ場を作ってしまうということ。
与える愛は、相手の間違っているところを厳しく指摘し正しい道へと導く。
根底に愛がある。
そして、
エネルギーは誰かからもらわないといけないと勝手に思い込んでいたのだけれど、
実はそうではない。
誰にも等しく降り注いでいるのだそうだ。
エネルギーについて参考になると思うので、こちらのブログを貼らせてもらいます。
誰もが心の中にカオナシを持っていると宮崎駿監督は言っていたそうだ。
寂しそうに漂うカオナシの姿にちょっと親近感を持ってしまうけど
ややこしい部分を持っているからこそ寄り添いあい許しあえるものなのかもしれないなと今は思う。