私は自分のことを恥ずかしいと思っていた。

こんな私が人から認められる訳がないと思っていた。

認められたいなら、めっちゃ無理して頑張らないといけないと思っていた。

 

でもここ1年、2年と内観を続けていくうちに、徐々に自分と仲直りをしてきた。

自分を好きになりかけていた。

すると不思議なことに、周りの人からも褒められたり面白がってもらえたり

好きだと言ってもらえたり。

笑顔をもらえるようになり。

私はそれがくすぐったいような、居心地の悪いような変な感じだった。

 

伊勢市からの帰り道、車を運転しながらふと思った。

「もしかして、私のことを認めてないのは私だけかもしれない」

「私以外の人たちは、私のことを認めてくれている??」

 

その途端自分の中からもう1人の自分が叫びだした。

「もういい加減にしてよーー!!!私を隠さないでよーー!!」

高速運転中だから、いくら大声を出しても構わない。

私の中の私は、叫んでいた。

ずっとその声を無視していたことを詫びた。

涙が出た。

高速運転中だけど、流れるままに涙を流した。

崩壊というか、決壊した。

 

偶然ではないと思うんだけど、車の中のBGMは「THIS IS ME」だった。

 

 

いい人たちばかりに囲まれているのに気づかず、自分をダメだと思い込んでいるのは自分だけだった。もう自分がダメだという証拠を必死で探すのはやめにしよう。

 

 

気づきは続く。

 

私の中にずっとあった刃物の正体がやっとくっきりわかった。

幼少期にお母さんと二人暮らしをしていた頃、実は男の人がいた。

その人は優しかったけれど、私は不安だった。

いつ捨てて置かれるのかと感じていて、自分の存在が不安で仕方がなかった。

弱い母親に頼らないといけない自分に対して怒りを持っていた。

誰かに依存しなければいけないと決めつけて自分を縛りつつ、依存する対象を憎悪していた。

永年どうしてもそこが腑に落ちなかったけれど、妙なタイミングでスルスル〜っと溶けていくように理解した。

私はとても寂しかったから、誰かに何とかして欲しかった。

「誰かに何とかして欲しい」のであって、自分で何とかしたくないのだ。

この時の私は「誰かに」してもらうことが重要だと思い込んでいた。

だから「依存」してしまうんだ。

でも「自分で」何とかする方が何百万倍も何千万倍も何億倍もいい。

これは最近、体で覚えた。

 

そして弱いと思っていた母は、実は全然弱くなかった。

たまたまその時にそういう事情だっただけのことだ。

 

ぶっちゃけ話ついでに、不思議な話がある。

母と二人暮らしの過去を振り返って、寂しかった自分を自覚して幼い頃の自分をイメージして癒そうとした。

よくあるインナーチャイルドワークを自力でやってみた時のことだ。

 

9才の頃住んでいた家の近所の公園をイメージする。

子供の私は家に居づらくてずっとそこにいた。

友達が帰ってしまっても私はひとりぼっちで。

大きな樽のような形をしたブランコがあった。

泣きたいけど悲しみ方もわからない寂しい心。

黄昏時。

今の私がそこに行って幼い自分の隣に座るイメージをしたまさにその時、不意に記憶が蘇った。

 

あの頃夕暮れの公園で、隣に誰かが座ってくれているような気がしたひとときがあった。

不思議と守られているような感じに包まれて、

寂しい気持ちが楽になって、ブランコに座り揺られている自分の足を見ている感じを鮮明に思い出した。

あれは、未来の私が私に会いにきてくれていたんだ。

 

なんかドラえもんのような話だけど(笑

そういうことも、あるのかもしれない。

 

よく自分探しっていうけれど、「自分」って実は

無数にいるのかもしれない。

 

弱い自分や、ダメな自分や後悔している自分。

失敗ばかりする自分も全部が自分。

それぞれがみんな私を構成している光の粒だ。

 

 と、私は思う。

 

 

 

長々としつこく書いていた吐き出しブログのおかげで、何とかここまで来れました。

なのでこういうスタイルは一旦終了とし、次の章に進みます。

 

 

 

 

 

ーー扉を開けて、最高の旅に出かけよう。