先日腰が痛くて、京都まで整体に行った。
超自然派な整体師さんは、身体の不調と心は直接作用していると説く。
私の肺がジツっている。
哀しみがありますね。これは孤独な寂しさによるものですね。
心当たりあり。
今年に入ってから、なんか寂しくて寂しくて仕方なかったのです。
でもこの孤独感はきっちり自分で処理せなあかんなぁとどこかで感じていたので、
紛らわすことも埋めることもせずにいました。
時々自分のおもりをしながら。
ふと。
孤独の反対語って何かな?と思い当たり、ネットで検索してみました。
辞書的には群衆。連帯感。
でも。
みんなと外れて1人というのは、孤立であって孤独とは少し違う。
連帯感というのも、利害が絡んでいるから余計に寂しくなる。
会話したり助け合ったりする人がたくさん居ても、雪雲のように迫る孤独感。
ふとした時に感じる、どこにも混じれない一滴のような孤独感。
もうこうなったら孤独をどっぷりと感じようという気にもなってくる。
私と私の2人きり。
そんな中、こんな意見を見かけました。
愛とは、主語を「わたし」でも「あなた」でもなく「私たち」にすること。
「わたし」が「わたし」がと自分のことしか考えないでいると孤立していきます。
「あなた」がどうこうというのに執着するのは、他者依存。
もしくは「あなた」のためにという自己犠牲。
「あなたと私」というのは連帯や取引の関係、「私たち」と似ているけれど違う。
「私たち」は一体感であり、愛情。
ここでふと。
「私たち」ということが愛情という意識として成立するためには、
自分の中にある依存的な要素を自覚してできるだけ少なくする必要があるんじゃないかなと思った。
以前。
私はダメなドラえもんだった。
のび太がつらいと私もつらかったし、ただ笑っていて欲しかったのに。
ただ受け容れて寄り添えば、いつだってそれは出来たはずなのに
私自身が自分を許せてなかったから、そうすることが怖くて怖くて怒ってばかりいた。
一番肝心な時にも、私の心の奥底に沈む鋭い刃物があって、その刃物は失敗を恐れるあまりに自分自身が作り上げた幻想だったのだけど、怖がりすぎて実体を持つようになり、その刃物で傷つくことに怯えていた。
怒ったり泣いたりしているうちに、自分を探しているうちに、外側の氷が徐々に解けていくようにその刃物は全貌を現した。
のび太のおかげで私の心の奥底にあった刃物のようなわだかまりを見つけ出すことが出来たんだと思う。
結局私はドラえもんのようにのび太を支えることが出来なかった。
何故なら、依存していたからだった。
自分自身で自分を満たすことをしようとせずに、のび太に幸せにしてもらおうとしがみついていた。
孤独なのは「私たち」じゃなかったから。
「わたし」がどうこうとか
「あなた」がなんだかんだとか
ずっと言っていた。
孤独の反対は、共感?
孤独の反対は、一体感?
今の私が考える孤独の反対は、自立だと思う。
自立した上で他者を想う、温かいハートのことだ。
あなたの思う孤独の反対語は、なんですか?
「人間にある最も強い欲望は、孤独から解放されること」
エーリッヒ・フロム