「そりゃア、親のない引き取り手のない赤ん坊を育てるってのも悪くはないと思う。だが、他人の子を育てるのは思ってる以上に難しいぞ? 犬や猫の子を飼うのとは訳が違う。その子が一人前になるまで一生涯、責任をもって養育しなければならないんだ。紗英子がどうしても育ててみたいというのなら、敢えて反対まではしないけど、もう少し気持ちが落ち着いてから、よく考えて判断しても悪くはないんじゃないのか?」
紗英子は真顔で首を振った。
「違うのよ、赤の他人の子を引き取るわけじゃないのよ。私たちの、直輝さんと私の血を引く、紛れもない私たちの子どもよ」
「おい、紗英子。お前、本当に何を言ってるんだ? こんなことをお前に言うのは酷だが、俺たちにはもう子どもはできるはずがないってことはお前もよく判ってるだろ」
「そんなことはよく判ってる。でもね、直輝さん、諦めるのは早いのよ。私たちにも子どもを持つチャンスはまだ残されているんだから」
直輝は呆れたように首を振った。
「俺はどうも紗英子の言う意味がよく判らん。お前はもう子宮を取ってしまったのに、どうやって子どもを生むっていうんだ?」
「だから、私が生むわけじゃないの。私の代わりに、誰か別の女性に生んで貰うのよ」
勢い込んで言った妻を、直輝は唖然として見つめた。
「何だ、それは。お前、何を夢みたいなことを言ってる」
「夢じゃないの。直輝さんも聞いたことくらいはあるでしょ。代理出産といって、自分たちの子どもを別の人の子宮に戻して育てて生んで貰う方法があるのよ」
「―」
しばらく直輝から声はなかった。
「タレントの幡多ふゆ香さんが一ヶ月ほど前に、代理出産で生まれた双子の赤ちゃんを連れて帰国したニュース、今朝のテレビで見たの。だから、私たちも―」
「おい」
直輝が呼びかける。紗英子は一瞬ポカンと夫を見たが、それでも、喋るのを止めようとしなかった。
「だからね、わたしたちも―」
「おい! 俺の話も聞けよ」
直輝が声を荒げた。
「代理出産なんて口で簡単に言うが、それがどれほど大変なことか判ってるのか? 今、日本では代理母による出産は認められていないんだぞ? 下手をすれば、犯罪にもなりかねない違法行為だって自覚があるのか。大体、そんな状況で引き受けてくれる病院なんて、あるものか」
「大丈夫よ、ちゃんと国内で引き受けてくれるところを見つけたから」
紗英子があっさりと言うのに、直輝は眼を剥いた。
「お前、本気なのか? 何もそこまでする必要があるのか?」
「あるわ。私はどんなことがあっても、少しでも可能性がある限り、諦めない。私はもう子宮を失ってしまったけど、まだ卵巣は二つとも健康な状態で正常に機能している。でも、これから年齢が上がるにつれて、卵子の状態だって良くなっていくことはない。ならば、一日でも早く良い状態の卵子を取り出して、あなたの精子と受精させたい。その受精卵を代理母の子宮に戻して無事着床すれば、あなたと私の赤ちゃんが生まれるでしょう」
「俺は反対だ。何もそこまで―天の倫理に逆らってまで、子どもを作る必要はない」
紗英子はキッとなった。
「何が天の倫理? あなたの言う天の倫理って、なに?」
「紗英子、よく考えてみろよ。赤ん坊ってのは、天の神さまが授けてくれるものなんだぞ。俺は元々、不妊治療そのものに否定的だったんだ。自然にしていれば授かるはずの子どもができないってことは、それが俺らの運命なんだから、残念なことではあるが、それが天の意思なら仕方ない、甘んじて受けるべきだと考えていた。だけど、ずっと子どもが欲しいと願い続けてきたお前があまりに不憫で、見ていられなくて、気が進まないながらも協力してきたんだ。だが、もうこれ以上はご免だ。受精卵を赤の他人の腹に入れて自分の子どもを生ませるだなんて、そんなのはおかしい。間違ってるよ」
「おかしくはないわ。現実に代理母出産で生まれている赤ちゃんは年間に何人もいるのよ」
「だから、そのこと自体が間違っていると言ってるんだ! 良いか、紗英子、自然の摂理に逆らうような行為は、神の意思に逆らうことになる。他人の腹に自分たちの卵を入れて育てさせて生ませるなんて、これはもう天への冒涜以外の何ものでもないよ」
妊娠や出産は本来、神の領域なんだ。俺ら人間が勝手にコントロールしちゃいけないんだよ。
直輝が囁くように言った。
紗英子は思わず笑い出した。
「何を寝ぼけたことを言ってるの? 直輝さんはいつからクリスチャンに改宗したの? それとも牧師にでもなったつもり? 本当にね、心から子宝を望む女には、天の意思も神の領域もそんなものは一切、関係ない。それは自分たちの受精卵じゃない―第三者の受精卵を使うっていうのなら、私だって初めからそんなことをしやしないわ。そんなことをするくらいなら、今、あなたが言ったように施設から身寄りのない子を引き取れば良いだけだもの。でも、私たちはまだ我が子を持てるチャンスがあるの。ならば、私はその一縷の可能性に賭けてみたい。あなたの血を引く子どもをこの手に抱いてみたいの。それが、そこまで責められるほどいけないことなのかしら」
「とにかく、俺は反対だからな。お前が何と言おうと、今回だけは駄目だ。協力はしないぞ」
直輝は話にならないというように立ち上がった。
「もう今夜は寝む」
低い声で言い、立ち上がろうとした夫の前に、紗英子は突然回り込んだ。突然、通せんぼされた格好になり、直輝が眉を寄せた。
「どういうつもりだ?」
「お願い、あなた、もう一度だけ、せめて一度でも良いから協力して」
紗英子は涙ながらに懇願した。ここで夫に背を向けられたら、すべてがおしまいだ。何としてでも直輝に承諾させなければ。
「今夜はもう、この話は終わりだ」
直輝の声はゾッとするほど冷たかった。
紗英子は咄嗟にその場に正座し、両手をついた。
「お願いよ、たったの一度で良いから、あなたの精子を私にちょうだい」
「良い加減にしないか! 俺は協力はしないと言っている。何度同じことを言わせれば、気が済む?」
地獄の底を這うような不穏な声を出されても、紗英子は平然と夫の言葉に耳を傾けている。
「何度でも同じ科白を繰り返すわ。あなたが良いと言うまではね」
「お願いだから、直輝さん」
直輝の足許に縋り付くのと、紗英子の身体が後方に飛んだのは同時だった。
「良い加減にしろッ。止せと言ってるのに、まだしつこく繰り返すつもりか?」
決死の覚悟で脚に縋り付いた紗英子を、直輝が振り払ったのだ。直輝本人にはそのつもりはなくても、結果としては紗英子を蹴り上げたのと同じことになった。
小柄な紗英子は後方に飛び、腰をしたたか打った。一瞬、痛みを感じたものの、紗英子は立ち上がり、キッチンへと走った。
キッチンの流しに行くと、包丁立てから、眼に付いた包丁を握りしめリビングに駆け戻る。
「もし、あなたがどうしても協力しないと言い張るのなら、私は今、ここで生命を絶つわよ。元々、子どもができない、いない人生なんて、生きていても仕方がないと思っていたの。いよいよ子宮を取ることになったときも、何度自殺しようかと思ったわ。それがまだ少しでも見込みがあると判ったんだもの、試してみない法はないでしょ。もし、それでも駄目なら、諦めもつくけど、やりもしない中から諦めるなんて考えられない」
紗英子は刃物を両手に握りしめ、喉元に当てた。
「紗英子、お前は自分が何を口走っているか自覚はあるのか?」
直輝の眼は信じられないものでも見るかのようだ。
「単なる脅しだと思う? 思うのなら、それでも良いわ。本気になった女がどれだけの覚悟を持っているか、見てみると良いんだわ」
紗英子は躊躇いもなく切っ先を喉元に当て、軽くすべらせた。つうっーと白い喉を刃先がなぞり、細い血の筋が走る。
「おい、お前」
直輝が口許を戦慄かせた。
「どう? もっと見たい? 赤ちゃんが欲しくて欲しくて、夢にまで見たのに、とうとう神さまに授けて貰えなかった可哀想な女の最後が見たい?」
別に脅しのつもりだけではなかった。この時、紗英子は本当にもうこのまま死んでも良いと思った。一度は諦めようとした。でも、やっぱり、諦めきれない。子どものいない人生なんて―考えられない。たとえどれほど愚かと言われようが、自分は子どもが欲しい、赤ちゃんをこの腕に抱きたい。
だから、もうこれで直輝が協力してくれず、本当に今度こそ子どもを望めないと判ったのなら、ここで今、死ぬのも悪くはないし悔いはない。
少し力を込める。今度は少し深く皮膚を抉ったと見え、血の滴がポタリと落ちた。
「止めろ! 止めるんだ」
直輝が突進してきて、紗英子の腕を掴んだ。サッカーで鍛え抜いた逞しい手で手首を掴まれたら、ひとたまりもない。紗英子は小さく呻いて、刃物を床に落とした。包丁が絨毯の上に落ちて、転がる。
「お前、尋常じゃない。狂ってる」
直輝は小さく首を振りながら呟いた。
そう、確かに私は狂っているのかもしれない。子どものこと以外に、何も見えず考えられなくなっているのかもしれない。
でも、それが何だというのだろう。本当に欲しいものを手に入れるためなら、人はどんなことだって、できる。
直輝が重い溜息を吐いた。
「仕方ない。お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。眼の前で死なれたら、俺も後味が悪いからな。だが、俺はあくまでも認めたわけじゃない。俺が協力するのは精子を提供するところまでだ。後は知らない。一度だけ、お前の気の済むようにしろ」
「―ありがとう」
紗英子が言い終わらない中に、リビングのドアは眼前で音を立てて閉まった。
もしかしたら、これで彼の心を永遠に失ってしまったのかもしれなかった。
いや、そんなことはない。今はあの男も頑なになっているけれど、実際に可愛い赤ん坊を見たら、相好を崩すに違いない。サッカー教室を開いて無料で子どもを教えているくらい、子ども好きの人なのだ。
大丈夫、大丈夫と紗英子は己れに言い聞かせる。きっと、すべてがうまくいくはず。
赤ちゃんさえ生まれれば、有喜菜が妊娠さえしてくれれば。
―判ったわ、直輝の子どもを生むわ。
今日の昼下がり、川べりの土手に座り、まるで勝利を高らかに宣言する女神のように言った有喜菜。
今、有喜菜のあの科白がまざまざと耳奥で甦った。
―お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。
有喜菜の言葉に呼応するように、直輝の先刻の科白が聞こえてくる。まるで汚いものでも見るかのような視線で、吐き捨てるように言った夫。
好きな男にそこまで悪し様に言われてまで、手に入れるほどの価値が本当にあるのだろうか。また、紗英子の胸に後悔に似た感情が渦巻き、胸がツキリと痛んだ。
いいや、そんなはずはない。
きっと大丈夫、すべてがうまくいく。
紗英子は先刻から何度も言い聞かせた言葉を呪文のように自分に言い聞かせた。
子どもさえ、生まれたら。
私たちの赤ちゃんさえ、生まれたら。
何もかもが順調にいき、すべてが丸くおさまるはずだ。
無理にそう言い聞かせている中に、極度の緊張が解けて気が抜けたのか、紗英子はくずおれるようにその場に座り込んだ。
喉元から血の滴が滲んでいるのにも頓着せず、紗英子は虚ろなまなざしをさ迷わせる。
大丈夫、大丈夫。既に何度も呟いた科白を呟きながら、放心したように虚空を見つめている。
マンションの外は月もない闇夜で、夜はどこまでも深かった。木枯らしがビルの壁に当たって聞こえるビル風が唸りを上げている。それはまるで、迫り来る嵐の予兆のように紗英子の耳に響き、薄ら寒い風は心の中にまで吹き込んでくるようだった。
(前編・終わり)
紗英子は真顔で首を振った。
「違うのよ、赤の他人の子を引き取るわけじゃないのよ。私たちの、直輝さんと私の血を引く、紛れもない私たちの子どもよ」
「おい、紗英子。お前、本当に何を言ってるんだ? こんなことをお前に言うのは酷だが、俺たちにはもう子どもはできるはずがないってことはお前もよく判ってるだろ」
「そんなことはよく判ってる。でもね、直輝さん、諦めるのは早いのよ。私たちにも子どもを持つチャンスはまだ残されているんだから」
直輝は呆れたように首を振った。
「俺はどうも紗英子の言う意味がよく判らん。お前はもう子宮を取ってしまったのに、どうやって子どもを生むっていうんだ?」
「だから、私が生むわけじゃないの。私の代わりに、誰か別の女性に生んで貰うのよ」
勢い込んで言った妻を、直輝は唖然として見つめた。
「何だ、それは。お前、何を夢みたいなことを言ってる」
「夢じゃないの。直輝さんも聞いたことくらいはあるでしょ。代理出産といって、自分たちの子どもを別の人の子宮に戻して育てて生んで貰う方法があるのよ」
「―」
しばらく直輝から声はなかった。
「タレントの幡多ふゆ香さんが一ヶ月ほど前に、代理出産で生まれた双子の赤ちゃんを連れて帰国したニュース、今朝のテレビで見たの。だから、私たちも―」
「おい」
直輝が呼びかける。紗英子は一瞬ポカンと夫を見たが、それでも、喋るのを止めようとしなかった。
「だからね、わたしたちも―」
「おい! 俺の話も聞けよ」
直輝が声を荒げた。
「代理出産なんて口で簡単に言うが、それがどれほど大変なことか判ってるのか? 今、日本では代理母による出産は認められていないんだぞ? 下手をすれば、犯罪にもなりかねない違法行為だって自覚があるのか。大体、そんな状況で引き受けてくれる病院なんて、あるものか」
「大丈夫よ、ちゃんと国内で引き受けてくれるところを見つけたから」
紗英子があっさりと言うのに、直輝は眼を剥いた。
「お前、本気なのか? 何もそこまでする必要があるのか?」
「あるわ。私はどんなことがあっても、少しでも可能性がある限り、諦めない。私はもう子宮を失ってしまったけど、まだ卵巣は二つとも健康な状態で正常に機能している。でも、これから年齢が上がるにつれて、卵子の状態だって良くなっていくことはない。ならば、一日でも早く良い状態の卵子を取り出して、あなたの精子と受精させたい。その受精卵を代理母の子宮に戻して無事着床すれば、あなたと私の赤ちゃんが生まれるでしょう」
「俺は反対だ。何もそこまで―天の倫理に逆らってまで、子どもを作る必要はない」
紗英子はキッとなった。
「何が天の倫理? あなたの言う天の倫理って、なに?」
「紗英子、よく考えてみろよ。赤ん坊ってのは、天の神さまが授けてくれるものなんだぞ。俺は元々、不妊治療そのものに否定的だったんだ。自然にしていれば授かるはずの子どもができないってことは、それが俺らの運命なんだから、残念なことではあるが、それが天の意思なら仕方ない、甘んじて受けるべきだと考えていた。だけど、ずっと子どもが欲しいと願い続けてきたお前があまりに不憫で、見ていられなくて、気が進まないながらも協力してきたんだ。だが、もうこれ以上はご免だ。受精卵を赤の他人の腹に入れて自分の子どもを生ませるだなんて、そんなのはおかしい。間違ってるよ」
「おかしくはないわ。現実に代理母出産で生まれている赤ちゃんは年間に何人もいるのよ」
「だから、そのこと自体が間違っていると言ってるんだ! 良いか、紗英子、自然の摂理に逆らうような行為は、神の意思に逆らうことになる。他人の腹に自分たちの卵を入れて育てさせて生ませるなんて、これはもう天への冒涜以外の何ものでもないよ」
妊娠や出産は本来、神の領域なんだ。俺ら人間が勝手にコントロールしちゃいけないんだよ。
直輝が囁くように言った。
紗英子は思わず笑い出した。
「何を寝ぼけたことを言ってるの? 直輝さんはいつからクリスチャンに改宗したの? それとも牧師にでもなったつもり? 本当にね、心から子宝を望む女には、天の意思も神の領域もそんなものは一切、関係ない。それは自分たちの受精卵じゃない―第三者の受精卵を使うっていうのなら、私だって初めからそんなことをしやしないわ。そんなことをするくらいなら、今、あなたが言ったように施設から身寄りのない子を引き取れば良いだけだもの。でも、私たちはまだ我が子を持てるチャンスがあるの。ならば、私はその一縷の可能性に賭けてみたい。あなたの血を引く子どもをこの手に抱いてみたいの。それが、そこまで責められるほどいけないことなのかしら」
「とにかく、俺は反対だからな。お前が何と言おうと、今回だけは駄目だ。協力はしないぞ」
直輝は話にならないというように立ち上がった。
「もう今夜は寝む」
低い声で言い、立ち上がろうとした夫の前に、紗英子は突然回り込んだ。突然、通せんぼされた格好になり、直輝が眉を寄せた。
「どういうつもりだ?」
「お願い、あなた、もう一度だけ、せめて一度でも良いから協力して」
紗英子は涙ながらに懇願した。ここで夫に背を向けられたら、すべてがおしまいだ。何としてでも直輝に承諾させなければ。
「今夜はもう、この話は終わりだ」
直輝の声はゾッとするほど冷たかった。
紗英子は咄嗟にその場に正座し、両手をついた。
「お願いよ、たったの一度で良いから、あなたの精子を私にちょうだい」
「良い加減にしないか! 俺は協力はしないと言っている。何度同じことを言わせれば、気が済む?」
地獄の底を這うような不穏な声を出されても、紗英子は平然と夫の言葉に耳を傾けている。
「何度でも同じ科白を繰り返すわ。あなたが良いと言うまではね」
「お願いだから、直輝さん」
直輝の足許に縋り付くのと、紗英子の身体が後方に飛んだのは同時だった。
「良い加減にしろッ。止せと言ってるのに、まだしつこく繰り返すつもりか?」
決死の覚悟で脚に縋り付いた紗英子を、直輝が振り払ったのだ。直輝本人にはそのつもりはなくても、結果としては紗英子を蹴り上げたのと同じことになった。
小柄な紗英子は後方に飛び、腰をしたたか打った。一瞬、痛みを感じたものの、紗英子は立ち上がり、キッチンへと走った。
キッチンの流しに行くと、包丁立てから、眼に付いた包丁を握りしめリビングに駆け戻る。
「もし、あなたがどうしても協力しないと言い張るのなら、私は今、ここで生命を絶つわよ。元々、子どもができない、いない人生なんて、生きていても仕方がないと思っていたの。いよいよ子宮を取ることになったときも、何度自殺しようかと思ったわ。それがまだ少しでも見込みがあると判ったんだもの、試してみない法はないでしょ。もし、それでも駄目なら、諦めもつくけど、やりもしない中から諦めるなんて考えられない」
紗英子は刃物を両手に握りしめ、喉元に当てた。
「紗英子、お前は自分が何を口走っているか自覚はあるのか?」
直輝の眼は信じられないものでも見るかのようだ。
「単なる脅しだと思う? 思うのなら、それでも良いわ。本気になった女がどれだけの覚悟を持っているか、見てみると良いんだわ」
紗英子は躊躇いもなく切っ先を喉元に当て、軽くすべらせた。つうっーと白い喉を刃先がなぞり、細い血の筋が走る。
「おい、お前」
直輝が口許を戦慄かせた。
「どう? もっと見たい? 赤ちゃんが欲しくて欲しくて、夢にまで見たのに、とうとう神さまに授けて貰えなかった可哀想な女の最後が見たい?」
別に脅しのつもりだけではなかった。この時、紗英子は本当にもうこのまま死んでも良いと思った。一度は諦めようとした。でも、やっぱり、諦めきれない。子どものいない人生なんて―考えられない。たとえどれほど愚かと言われようが、自分は子どもが欲しい、赤ちゃんをこの腕に抱きたい。
だから、もうこれで直輝が協力してくれず、本当に今度こそ子どもを望めないと判ったのなら、ここで今、死ぬのも悪くはないし悔いはない。
少し力を込める。今度は少し深く皮膚を抉ったと見え、血の滴がポタリと落ちた。
「止めろ! 止めるんだ」
直輝が突進してきて、紗英子の腕を掴んだ。サッカーで鍛え抜いた逞しい手で手首を掴まれたら、ひとたまりもない。紗英子は小さく呻いて、刃物を床に落とした。包丁が絨毯の上に落ちて、転がる。
「お前、尋常じゃない。狂ってる」
直輝は小さく首を振りながら呟いた。
そう、確かに私は狂っているのかもしれない。子どものこと以外に、何も見えず考えられなくなっているのかもしれない。
でも、それが何だというのだろう。本当に欲しいものを手に入れるためなら、人はどんなことだって、できる。
直輝が重い溜息を吐いた。
「仕方ない。お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。眼の前で死なれたら、俺も後味が悪いからな。だが、俺はあくまでも認めたわけじゃない。俺が協力するのは精子を提供するところまでだ。後は知らない。一度だけ、お前の気の済むようにしろ」
「―ありがとう」
紗英子が言い終わらない中に、リビングのドアは眼前で音を立てて閉まった。
もしかしたら、これで彼の心を永遠に失ってしまったのかもしれなかった。
いや、そんなことはない。今はあの男も頑なになっているけれど、実際に可愛い赤ん坊を見たら、相好を崩すに違いない。サッカー教室を開いて無料で子どもを教えているくらい、子ども好きの人なのだ。
大丈夫、大丈夫と紗英子は己れに言い聞かせる。きっと、すべてがうまくいくはず。
赤ちゃんさえ生まれれば、有喜菜が妊娠さえしてくれれば。
―判ったわ、直輝の子どもを生むわ。
今日の昼下がり、川べりの土手に座り、まるで勝利を高らかに宣言する女神のように言った有喜菜。
今、有喜菜のあの科白がまざまざと耳奥で甦った。
―お前という女にはつくづく愛想が尽き果てたが、仮にも長い月日を共に歩いてきた仲だ。
有喜菜の言葉に呼応するように、直輝の先刻の科白が聞こえてくる。まるで汚いものでも見るかのような視線で、吐き捨てるように言った夫。
好きな男にそこまで悪し様に言われてまで、手に入れるほどの価値が本当にあるのだろうか。また、紗英子の胸に後悔に似た感情が渦巻き、胸がツキリと痛んだ。
いいや、そんなはずはない。
きっと大丈夫、すべてがうまくいく。
紗英子は先刻から何度も言い聞かせた言葉を呪文のように自分に言い聞かせた。
子どもさえ、生まれたら。
私たちの赤ちゃんさえ、生まれたら。
何もかもが順調にいき、すべてが丸くおさまるはずだ。
無理にそう言い聞かせている中に、極度の緊張が解けて気が抜けたのか、紗英子はくずおれるようにその場に座り込んだ。
喉元から血の滴が滲んでいるのにも頓着せず、紗英子は虚ろなまなざしをさ迷わせる。
大丈夫、大丈夫。既に何度も呟いた科白を呟きながら、放心したように虚空を見つめている。
マンションの外は月もない闇夜で、夜はどこまでも深かった。木枯らしがビルの壁に当たって聞こえるビル風が唸りを上げている。それはまるで、迫り来る嵐の予兆のように紗英子の耳に響き、薄ら寒い風は心の中にまで吹き込んでくるようだった。
(前編・終わり)