「こんなことをお願いできるのは、あなたしかいない。もちろん、本当に身勝手な頼みだとは承知してる。でも、あなたは私たちの共通の友人でもある。あなたにしかこんなことは頼めないの。お願いよ、直輝さんと私の子どもを生んでちょうだい」
「直輝の、子ども」
 有喜菜のきれいにルージュを塗った唇が震えた。
「私が、直輝の子どもを産む?」
 紗英子は動揺する有喜菜とは裏腹にしっかりとした口調で言った。
「そうよ、あなたに私と直輝さんの子どもを生んで欲しいのよ」
 この時、迂闊にも紗英子は気づかなかった。有喜菜の口から出たのは〝紗英子と直輝の子〟ではなく〝直輝の子〟であったことに。
 長い静寂があった。それでも、紗英子は返事を急かそうとは思わなかった。
 誰だって、急にこんなことを言われたら、戸惑うし迷うのは当然だ。しかし、何故か、紗英子はある種の確信を抱いていた。恐らく、有喜菜は自分の頼みを断りはしない。紗英子と直輝の子どもを生むことを最終的には承諾するはずだ。
「もちろん、お礼はちゃんとするわ。友達だから、ただで生んで欲しいとか、安くしてなんてことは言わない。相場として考えられる報酬に少し上乗せして支払う。それで、引き受けて貰えないかしら」
 やはり、有喜菜といえども、謝礼のことは気になるはずだ。彼女の実家は既に往時の勢いはない。有喜菜が学生の頃は手広く商売をやっていた父親が数年前に亡くなり、跡を継いだ弟が事業に失敗した上に莫大な借金を作ったからである。
 子どももいない一人暮らしでは、慎ましく暮らせば出費は最低限に抑えられるだろうけれども、何かあっても実家を頼ることはできない状況なのだ。
 具体的な金額を提示すると、有喜菜の唇がまたかすかに戦慄いた。
「本当にやる気なのね?」
「もちろんよ。悪ふざけでこんなことを言い出したりはしないし、仕事中のあなたを呼び出したりはしないわ」
「二つほど確認しても良いかしら」
「もちろん、何でも訊いて」
「一つ目の質問は、直輝がこのことを承諾しているのかってこと。あの人の性格からして、そこまで途方もないことにすんなり賛成するとは思えないもの。それから二つ目は、代理出産は日本では違法になる行為で、正当な医療行為とは認められないわ。その点について、紗英はどう考えてるの?」
「S市のエンジェル・クリニックって名前くらいは聞いたことがない?」
 紗英子は今朝、クリニックの院長と直接、電話で話したこと、その内容の細部まで隠すことなく告げた。
「じゃあ、その病院にすべてを任せると?」
「そうね。海外へ行くとなると、言葉の問題もあるし、費用だけでも格段に跳ね上がってしまうから。幸い院長先生も引き受けても良いと言っているし、そこでお世話になろうと思う」
「私は一度、流産してる。三度目は不幸な事故のせいだったとしても、二度めも死産だった。確かに妊娠はできる身体かもしれないけれど、無事に赤ちゃんを産めるかどうか自信はないわ」
 そのときだけ、有喜菜の声が揺れた。
 紗英子は、きっぱりと言った。
「構わないわ」
 もう一度、正面から友の顔を見据える。
「そのときはそのときで、仕方ないと諦める。もちろん、途中で万が一のことがあっても、お礼はちゃんと支払うから」
「途中で流産や死産になったとしても、全額支払うと?」
「ええ、ちゃんと約束どおりのお金を渡すわよ」
 有喜菜が息を呑んだ。
「あなた―、本当にやる気なのね」
「当たり前でしょう。先刻も言ったじゃない。冗談でこんなことを言ったりはしないって」
「でも、直輝は―」
 言いかけた有喜菜の言葉を塞ぐように、紗英子は断じる。
「夫には、あなたの名前は言わないわ」
「―」
「クリニックで紹介して貰った、どこの誰かも判らない女性だと話すつもりよ」
 再び長い沈黙があった。
 その永遠とも思われる沈黙の時間を、今度もまた紗英子は辛抱強く待った。紗英子には判っている。既に有喜菜の気持ちも決まっているはずだ。今の沈黙の長さは彼女の迷いではなく、事態の複雑さを整理し、理解しているにすぎない。
 いや、現実的な彼女のことだから、もう代理出産を引き受けた先―赤ん坊が生まれるまでの身の処し方について考えているのかもしれない。
「判った」
 やはり、と思った。長年の親友の性格を読み違えるほど、紗英子も愚かではない。
 最初から、有喜菜は引き受けるだろうと思っていた。むろん、幾ばくかの不安はあったけれど。
「直輝の赤ちゃんを産むわ、私」
 この時、初めて紗英子はかすかな違和感を憶えた。
 何故、有喜菜は〝直輝の子〟と言うのか。私の卵子と直輝の精子を掛け合わせた受精卵が育って生まれれば、それは間違いなく私たち夫婦の子どもなのに。
「ええ、お願いよ、私と直輝さんの赤ちゃんを産んでちょうだい。あなたを信じてすべてを任せるわ。もちろん、私も全面的にあなたに協力するから」
 戸惑いを憶えながらも、紗英子は特に何も言わなかった。今ここで、有喜菜に否と言われたら、困るのは紗英子だったからだ。
「来週、一度、S市のクリニックに行くことになってるの。できれば、あなたも都合を合わせて行って欲しいわ。こうと決めたら、早いほうが良いものね。多分、そのときにひととおり健康状態のチェックとかもすると思うの。もちろん、私も卵子の状態を調べるわ」
 妊娠できるかどうか、妊娠しても継続することができるか。そういった面に関して細部に渡って調べることになるだろう。
「判った。日にちが決まったら、連絡して。その日に合わせて休みを取るから」
 有喜菜の口調は極めて事務的だった。その表情も淡々としていて、彼女が代理出産を引き受けたことを後悔しているのかどうかまでは判らない。
「それじゃあ、風邪なんか引かないように気をつけて」
 別れ際、紗英子は有喜菜に微笑みかけた。もちろん、その言葉は有喜菜本人のために言ったわけではなく、いずれは紗英子と直輝の大切な赤ちゃんをその身に宿すことになる女に対して言ったのだ。
 紗英子の気持ちが伝わったのかどうか、有喜菜は曖昧な笑みを浮かべただけで何も言わずに去っていった。
 そのときの有喜菜の表情は長らく紗英子の脳裏から消えることはなかった。何故だろう、期待どおりに有喜菜が代理母となることを引き受けたというのに、紗英子は心が弾まなかった。
―直輝の子どもを生むわ。
 きっぱりと宣言した有喜菜の言葉の裏には、何か彼女の強い意思のようなものが隠されているように思えてならなかった。もしかしたら、有喜菜はこう言いたかったのではないか。
―あなたの子どもではなく、直輝の子どもを生むわ。
 と。
 もちろん、それは紗英子の勘ぐりであり、取り越し苦労にすぎないだろう。しかし、去ってゆく有喜菜の後ろ姿をその場で茫然と見送りながら、紗英子は自分が何か取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと思い始めていた。
 そして、慌てそんな想いを打ち消す。
 馬鹿な、ここまで来て、迷いは禁物だ。自分は正しいことをしているはずではないか。
 もし有喜菜が妊娠に成功すれば、紗英子は長年の夢をやっと果たせる。結婚して以来、十二年間ずっと欲しいと切望していた我が子をこの腕に抱けるのだ。
 大丈夫。ほんの少し気弱になっているだけだ。紗英子は自分に言い聞かせながら、もう一度空を振り仰ぐ。いつのまにできたのか、水色の透明な空に、ひとすじの飛行機雲が浮かんでいた。
 紗英子はゆっくりと草の斜面を登った。土手の上のこの道は、中学時代は紗英子と有喜菜の通学路であった。毎日、朝と夕方、二人でこの道を歩いたものだ。紗英子は自転車を押して歩き、有喜菜はその傍らを飛び跳ねるように歩きながら、学校までの道程を辿った。
 よくこれだけ喋ることがあるものだと我ながら呆れるくらい、色んなことを喋った。家族のこと、勉強のこと、応援しているアイドルのこと。でも、今から思えば、共通の友人であり、紗英子の彼氏でもある直輝については、まるで暗黙の了解でもあるかのように、二人ともに話題にはしなかった。
 あれも今から考えれば不自然なことだったかもしれない。もしかしたら、有喜菜は直輝を好きだったのだろうか。思えば、そんな節はなきにもしあらずだった。
 ―だからこそ、二年になって有喜菜と直輝が別々のクラスになり、今度は自分が彼と一緒のクラスになるやいなや、紗英子は直輝に急接近し、自分から告白したのである。まるで有喜菜が彼の側からいなくなるのを待っていたように、直輝に近づいたのだ。
 もっとも、その時、まだ有喜菜と直輝は付き合っていたわけでもないし、傍目には、ただの喧嘩友達―むしろ男同士の友情に近いものを築いているように見えた。だが、それはあくまでも、見た目にすぎず、同人同士の間に何があり、どのような心の交流があったのか、もしくは秘められていたのかまでは判らない。
 有喜菜にしてみれば、クラス替えをした途端、親友である紗英子が直輝を奪うように彼氏にしてしまった―と思ったとしても不思議ではない。
 まあ、いずれにせよ、代理出産を頼む女が有喜菜であることは夫には伏せておいた方が良い。有喜菜の挙動にいささか疑わしいところがあると判った今では、余計に黙っていた方が賢明というものだろう。
 もっとも、紗英子は元から有喜菜のことを直輝に話すつもりはなかったが。有喜菜にも言ったように、代理母はクリニックで紹介された名も知らぬ女性だと言うつもりだ。子どもが生まれてからの親権の問題を煩雑にしないためにも、個人情報守秘の義務があり、互いの住所や名前は知らされないのだと。
 何故、有喜菜を代理母に選んだのかと訊かれれば、紗英子にも、はきとした応えはない。ただ、いちばん身近にいる妊娠できる身体を備えた女性ということで、真っ先に有喜菜の顔を思い浮かべた。いや、というよりは、有喜菜しか考えられなかったのだから、やはり、自分は彼女に信頼を寄せているのだろう。
 信頼? いや、信頼というよりは、自分たち夫婦の共通の友人である彼女であるからこそ、やはり待ち望んだ赤ん坊を生むのは有喜菜であるべきだという強い想い―信念のようなものを感じたのかもしれない。
 前方から小学生の一団が賑やかに歩いてくる。数人群れているのは一年生らしい。ピカピカの真新しいランドセルが冬のやわらかな陽射しに映えて眩しかった。
 小さな身体にはまだ不似合いなほど大きなランドセルを背負い、彼等は歓声を上げながら歩いてゆく。可愛い一年生たちを見送りながら、紗英子は思う。 
 やはり、自分は間違っていない。もうすぐ、もうすぐ、可愛い子どもをこの手に抱ける。あと少し辛抱すれば、自分もあんな愛らしい子どもの母親になれるだろう。ランドセルだって、買ってあげることができる。
 そうだ、生まれてくる赤ん坊が大きくなって小学校に入るときには、最高級のブランドランドセルを買ってあげよう。
 紗英子は少し気分が明るくなり、軽くハミングしながら歩き始めた。有喜菜とは逆方向―マンションへ向かって足取りも軽やかに歩き始める。夫直輝と自分の住まいに。 

 夕食後、直輝は朝と同じようにコーヒーメーカーでコーヒーを淹れ、ゆっくりと飲む。夫はアルコール類は嫌いな方ではなかったが、家ではあまり飲まない。晩酌などは間違ってもしなかった。
 紗英子はアルコールは嫌いではなく、むしろ好きな方だ。たくさんは飲めないが、好きなドラマなどを借りてきて、アルコールを飲みながら、ゆっくりと鑑賞するのは大好きだ。しかし、直輝がアルコールを飲まないため、妻の自分だけが側で飲むこともできなくて我慢していた。酒豪というのではないから、長年、夫に付き合って我慢している中に、いつしかアルコールの味も忘れた。
 元々、そこまでの執着はないのだ。
 朝食のときに食べながらコーヒーを飲む習慣だけはいまだに頂けないが、夕食後にゆっくりと飲むのは別に嫌ではない。夕食後、コーヒーを飲みながら新聞を広げる夫の真剣な表情が紗英子は好きだ。
 直輝の持つカップから白い湯気がたちのぼっている。湯気を通して夫の顔を時折、ちらりと見ながら、紗英子は改めて直輝の整いすぎるほど整った顔に見惚れていた。
 私はこんなにも直君が好き。
 泣きたいような気持ちになってくる。
 一時は離婚しかないのかと思いつめたほどだったのに、やはり、昨夜のセックスが二人の距離を縮めてくれたのだろうか。だとすれば、直輝の考えはあながち間違ってはいなかったことになる。
―セックスは子作りのためだけにあるものじゃないだろう。
 彼は不妊治療をしている間も、よく言っていた。そのたびに、紗英子は彼に反発し、夫婦仲はどんどん険悪になっていった。漸く辛い治療から解放され、直輝は直輝でホッとしているのだろう。彼の言うように、夫婦のセックスとは本来、互いの信頼と愛情を深め、確かめ合うコミニュケーションなのかもしれない。
 結婚して何年も経つのに、いまだに自分がこんなにも夫を愛しているのが信じられない。が、果たして彼も自分と同じ気持ちなのかは自信がない。今、この場で訊ねようとしても、笑われそうで勇気が出せない。
 昨夜は幾度も直輝に抱かれ、彼はその度に紗英子の耳許で〝好きだ、愛している〟と囁いた。しかし、情事の最中の〝愛している〟などという科白を鵜呑みするほど愚かなことはない。男にしろ女にしろ快楽に身体を支配され、我を忘れている最中には、どのような甘い科白だとて口にするものだ。
「あなた、少し話があるの」
 別に今夜、あの話をしなければいけないわけではなかった。だが、こうと決めたのなら、早い方が良いのも確かだ。引き延ばせば引き延ばすほど、心は鈍り言いにくくなるだろうことは判っていた。
「うん? 何だ」
 新聞に視線を向けたまま返事が返ってきた。
「大切な話よ」
 紗英子の口調に何かただならぬものを感じ取ったのか、直輝は新聞を大雑把に畳み、脇へ寄せた。
 食後のコーヒーはリビングでと決まっている。イブのために焼いたブッシュ・ド・ノエルもクリスマスが終わる前にちゃんと今夜、食べたし、シャンパンも開けて、他のご馳走も何とか片付いた。
 今、直輝と紗英子は少し離れて同じソファに並んでいる。
「何だ、改まって。難しい話なら、また明日以降にしてくれないか。今日はまだクリスマスだろ。あまり込み入った話はしたくないな」
 昨夜、久しぶりに良いムードになりながらも、有喜菜のことで険悪になりかけた。漸く仲直りしたところにまた厄介な話を持ち出されたくないと思ったに違いない。
「さっきも言ったでしょ、大切な話なのよ」
 直輝がこれ見よがしに溜息をついた。
「で、何なんだ、その大切な話ってのは」
「赤ちゃんの話」
 これは、かなりの不意打ちだったらしい。ここまで愕いた夫の顔を紗英子は初めて目の当たりにした。他のことが話題であれば、きっと笑っていただろう。
 しかし、今夜は笑うどころではなかった。
「赤ん坊? 紗英子、お前、一体、何を言ってるんだ? お前は手術をして―」
 流石に最後までは言えなかったのだろう。直輝は中途半端に口をつぐみ、紗英子の正気を疑うかのように見つめてきた。
「それとも、施設から身寄りのない子どもでも引き取ろうってのか?」
 直輝はどこか所在なげに周囲を見回し、それから苛立ったように煙草を取り出して火をつけた。