自分が健康な子どもを授かる可能性があると聞かされたときも、正直、有喜菜は何の感慨も湧かなかった。当然だろう、幾ら健やかな子どもであろうと、これから自分が身籠もろうとする赤ん坊は我が子ではない。よく借り腹という言葉があるけれども、まさに、代理母は借り腹にすぎないのだ。十月(とつき)十(とお)日(か)、自分の子宮で育て生命賭けで産み落としたとて、それは所詮、他人の子。有喜菜の子どもではない。
 自分の血を一滴たりとも引かない赤ん坊をどうして愛しいなどと思えるだろう。こんなことは馬鹿げている。常識や分別のある人間ならば、代理母出産など頼まれても―たとえいかほどの報酬を積まれようと即座に断るべきものだ。
 自分たち夫婦の子どもを生んで欲しい、代理母になって欲しいと頼まれた刹那、有喜菜は紗英子に裏切られたような気持ちになったものだ。少なくとも、有喜菜は紗英子を親友だと信じてきた。だが、親友だと思っていた女は、ただ有喜菜を利用価値のある道具だとしか見なさなかった。
 中には親友だから、そんなことも頼めるのだと訳知り顔で言う人もいるかもしれない。が、本当の友人であれば、まだ法律で認められてもいないような代理母出産を頼んだりするだろうか。
 少なくとも、有喜菜ならば、顔を見たこともない誰か別の女性に頼むだろうし、また端(はな)から、他人の子宮を借りてまで子を得ようとは思わないに違いない。子どものいない人生は淋しいけれど、従容と受け容れて静かに暮らす道を選ぶだろう。
 紗英子が代理母になって欲しいと言った瞬間から、自分たちを繋いでいた友としての絆は絶たれたに等しい。
 やはり、紗英子は有喜菜をその程度にしか見てはいなかったというのが、証明されたような出来事でもあった。有喜菜が紗英子に出逢ったのはもう二十六年も前のことになる。
 大阪から父の仕事の都合で引っ越してきた先の小学校で同じクラスになったのだ。性格が対照的だったせいか、二人は愕くほどうまくいった。やがて中学に入り、有喜菜は直輝に出逢う。これは誰にも話したことはないけれど、有喜菜は直輝を好きだった。いや、多分、今も彼への気持ちは変わっていないと思う。
 中学一年で直輝と同じクラスになったときから、彼とはすぐに意気投合した。もちろん男女というよりは、有喜菜自身が男っぽい性格だったし、当時はまるで女を感じさせないタイプだったから、男同士の友情に近い関係を築いていた。そんな中で、直輝への想いが単なる友情ではなく恋心だと気づいたのは、いつの頃だったろうか。
 それでも、有喜菜はその気持ちを表に出さなかった。見かけよりは奥手で臆病だったせいもある。直輝に告白してフラレてしまったら、もう今までどおりにはつきあえない。告白して側にいられなくなるよりは、友達としてでも側にいたいという切ない心が勝ったのだ。
 だから、直輝とは良い友達のまま月日は過ぎ、やがて二年になり、二人は別々のクラスになった。二年では紗英子と直輝が同じクラスになった。既にその時、有喜菜は紗英子に直輝を紹介していた。もちろん、彼氏などではなく、単なる気の合うクラスメートとして、だ。
 だから、まさか内気で何をするにも消極的な紗英子が直輝と同じクラスになった途端、猛アタックするなんて考えもしなかった。もし、想像がついていたら、幾ら有喜菜でも絶対に直輝と紗英子を引き合わせたりはしなかった。
 今でも、有喜菜はふと思うことがある。もしかして、紗英子は有喜菜の気持ちを知っていたのではないか? 有喜菜が直輝に淡い思慕を抱いていたことを承知の上で、直輝を奪ったのではないかと思えてならないときがある。
 もちろん、奪うと言い方は適当ではない。有喜菜と直輝は当時、付き合っていたわけでも、彼氏と彼女というわけでもなかった。また、紗英子にも自分は直輝が好きだと打ち明けたこともなかったのだ。そんな状態で、紗英子が直輝に告白したからといって、抜け駆けしたとはいえない。
 でも、有喜菜と直輝が別のクラスになって離れるやいなや、待っていたように直輝に近づいていった紗英子のやり方は何か抜け目のなさを漂わせているようでもあった。
 まあ、今となっては言っても詮のないことではある。あの時、直輝は紗英子が告白しても断ろうと思えば断れたのに、それを受け容れ紗英子と付き合い始めたのだから。むしろ有喜菜が先に告白していても、直輝が受け容れたかどうかは疑わしく、かえってフラレて気まずくなるよりは、気心の知れた友達関係を維持できたことに感謝するべきなのかもしれない。
 運命とは結局、そうなるべくしてなるものだというのが有喜菜の持論だ。確かに様々な選択肢があり、それを選びながら生きていくわけだが、とどのところは選び取ったのが最初から自分の人生であり運命であったとしか言いようがない。
 なので、もし、ああしていたらとか、あの時、こうしていたらと後から愚図愚図と考えるのはあまり好きではなかった。考えて変えられるものならば良いが、変えることなんてできはしないのだから、所詮時間の無駄ではないか。過去を振り返って後悔する暇があるほどなら、まだ決まってはいない未来について考えた方がよほど効率的というものだろう。
 しかし、後悔という言葉が嫌いな有喜菜も、あのときのことだけは今でも考えずにはいられない。
 そう、他ならぬ二ヶ月余り前のこと、紗英子から代理出産の依頼を受けたときの話である。
―私と直輝の子どもを生んでくれない?
 真摯な紗英子の瞳には、どこか憑かれたような光すらあって。
 むろん、有喜菜は断るつもりでいた。が、ふいに〝直輝の子ども〟というフレーズに心が揺らいだ。直輝が選んだのは自分ではなく紗英子であり、彼と人生を歩んできたのも他ならぬ紗英子の方。本来であれば、部外者となってしまった自分が直輝の人生に関われる―しかも彼の子どもを身籠もり世に送り出すことなど、できるはずがない。
 しかし、どういう運命の巡り合わせか、自分にはチャンスが巡ってきた。たとえ紗英子が自分を子どもを得るための道具扱いしたって、それが何だというのだろう?
 紗英子と違い、自分はまだ彼の子どもをその身に宿し生むことができる。それは有喜菜の心を大きく揺さぶり、一抹の迷いを生じさせた。
 気がつけば、有喜菜は紗英子に〝良いわ〟と応えていた。ただ、最後まで紗英子に〝あなたの子どもを生む〟とは言わず、
―私は直輝の子どもを産むわ。
 と告げた。あれは、むろん故意の上のことであり、有喜菜のせめてもの矜持であった。自分は紗英子に利用されるのではない、自分自身の意思で、紗英子にもできなかった行為―好きな男の子どもを生むのだ。
 その気持ちを精一杯、あのひとことに込めたのだ。紗英子にそれが伝わったかどうかも判らないし、それはこの際、どうでも良いことだ。
 しかし、あの日、紗英子と別れて自宅に戻ってから後、紗英子は幾度携帯電話を握りしめたかも知れなかった。こんなことは馬鹿げている。幾ら子どもが欲しいからといって、借り腹をしてまで赤ん坊を得ようとするのは行き過ぎだし、更にそれに協力しようとする自分もどうかしているとしか思えない。
 紗英子が何をしようと望もうと自由だけれど、自分までがその狂気に引きずり込まれる必要はさらさらない。
 理性はそう告げてはいたけれど、直輝の子どもを生むというそのことは何とも抗いがたい魅力となって、紗英子の理性を狂わせるのだった。また、それだけではなかった。紗英子が代理出産の報酬として提示した金額は途方もないものだった。
 有喜菜は現在、N町のマンションに一人暮らしである。N町では、まず高級マンションの中に入ると言って良い。保険外交の仕事で入る収入は多くはなかったけれど、少なくもなく、贅沢をしなければ、それだけのマンションに住むゆとりはあるのだ。
 だが、有喜菜ももう三十六歳、これから再婚する気は毛頭ない。結婚も男も、もう最初の結婚でほとほと嫌気が差した。仮に、これから好きな男ができて共に暮らすようになったとしても、籍を入れる気は毛頭ないのだ。一人の男に自分の人生を縛られるなんて、もう懲り懲り。
 もちろん、この男とならば人生をやり直しても良いと心から思えるほどの出逢いがあれば、また結婚する気にもなるだろうが。
 ときめきも愛情もけして不変ではない。そのことを身をもって知る有喜菜は、たとえ心から愛する男と出逢ったとしても、再び結婚という枠に入るだけの勇気を持てるか自信はなかった。
 有喜菜が望むのは後腐れのない、大人の自由な関係だ。ゆえに、基本的には生涯、独身を貫く覚悟でいる。つまり、今、流行の言葉でいえば〝おひとりさま〟の老後を迎えることになる。であれば、蓄えは少しでも多い方が良いに違いない。
 三十六歳で晩年のことまで考えているといえば、他人は笑うだろう。しかし、そんな呑気なことが言えるのは守ってくれる夫がいて、老後を託せる我が子がいる幸せな女たちだけだ。有喜菜の場合は夫も子どももいないのだから、たとえ誰に何と言われようと、老後に安心して暮らせるだけの貯金は必要なのである。
 実家は当てにはできない。有喜菜の父親が生きていた頃は、父親は羽振りの良い貿易商であったけれども、父が亡くなり弟が跡を継いだ今となっては、事業拡大が裏目に出て、最早、破算寸前だ。かえって頼りになるどころか、弟からは金の無心に来られる始末だった。
 弟の妻はまるで現実が認識できていない女である。かつての贅沢三昧が忘れられず、ブランド物を買いあさり、二人のできの悪い子どもたちをインターナショナルスクールだか何だか知らないが、私立の馬鹿高い学費の小学校に通わせている。
 自分の妻ひとりを御しきれない弟も男として情けない限りではある。有喜菜はできれば、あの弟一家とは関わり合いになりたくはない。が、そこは血を分けた弟だから、半泣きで
―姉ちゃん、少しで良いんだ。何とかしてくれよ。
 と泣きつかれると、無下に突っぱねることができないのも辛いところである。
 悔しいけれど、紗英子が代理出産の報酬として出すという金は、今の有喜菜には必要なものだった。
 あの日、有喜菜はマンションに帰り着いてから、冷蔵庫に買い置きしてあるチューハイとビールを浴びるように飲んだ。酔って理性を狂わせなければ、代理母なんて引き受けられなかったからだ。
 依然として分別ある自分は
―そんなことは止めるんだ。
 としきりに告げていた。
 一方で、あの男の子どもを生みたいという想いと紗英子がちらつかせた金は抗いがたい魅力となり、有喜菜の心を絡め取る。
 また、金と直輝の妻であるという立場をひけらかせて、自分を道具扱いする紗英子にも憤りと憎しみを憶えずにはいられなかった。
 どうしてあの時、紗英子が代理母の話を持ち出したそのときに毅然として拒絶できなかったのか。そんな気弱な自分が酷い意気地なしにも思え、自己嫌悪に陥った。
 有喜菜にしてみれば、酔っぱらって理性を麻痺させることで、何とかあの話に〝NO〟と言いそうになる自分を抑えようとしたのだ。だが、ついに自分を抑えきれず、携帯のナンバーを押したのが、一夜飲み明かした早朝だった。
 確か、あれは午前四時くらいだったと思う。携帯に記憶させてある紗英子のナンバーを押し、息を潜めて相手が出るのを待った。
 紗英子はなかなか出ず、呼び出し音が鳴るのを待つ間が永遠に続くようにも感じられた。
 時間が時間だから、出ないのも当たり前である。そう思って諦めかけた瞬間、
―はい?
 聞き慣れた紗英子の声が耳を打った。
 刹那、有喜菜は息を呑んだ。電話をかけたのは自分でありながら、おかしな話ではあるけれど、いざ紗英子が出ると何をどう話して良いか判らなかった。
―あの、話。
 名乗りもせずにいきなり切り出したのだが、そこは長年の付き合いだから、紗英子もすぐに判ったようだ。
―ええ。
 力強い応えが返ってきて、何故か、紗英子が少しも動じていないようなのが、かえって有喜菜の心を奮い立たせた。
 私はこんなにも動揺しているのに、難題を突きつけた紗英子の方は平然として、あたかも当然の要求をしたかのように構えている。
 そのことにひどく傷つき、向こうがその気なら、自分も受けて立とうと決めた瞬間だった。恐らく、紗英子は有喜菜が断るとは考えてもいないのだろう。だから、こんなにも泰然としていられるのだ。
 いっそのこと、この場でその裏をかいて
―やっぱり、あの話はお断りするわ。
 と言ってやるのも一興かもしれなかった。しかし、有喜菜は別の道を選んだ。
 私が断れないと判っているというのなら、それに乗ってあげるわ。でも、私は、けして誰にもできないことをするのよ。少なくとも、あなたにはけしてできないことを―あの男の赤ちゃんを産むのはこの私よ。
 それを忘れないで欲しいわ。
 そう言いたい衝動をぐっと堪え、有喜菜は心で考えていたのとは全く別の科白を口に乗せた。
―できるだけ早く進めてちょうだい。
 流石に、紗英子もこの展開には面食らったようで、困惑気味の声がしばらくして返ってきた。
―有喜菜?
―代理母の話よ。引き受けると言ったでしょう。だから、早く進めて欲しいの。
―そうは言っても―。
 口ごもる紗英子に、有喜菜は早口で告げた。
―決心が揺るがない中に、さっさと済ませたいの。あなたも判るでしょ。こんなことは、なかなか決断できるようで、できないことなの。
 少しの沈黙の後、紗英子が静かに言った。
―判った。私もどうせ、そのつもりなのよ。こうと決めたら、少しでも早い方が良いと思うのは同じ。でも、今は年末だし、とりあえず年明けを待ちましょう。 
―時間が経つのがこれほどもどかしく感じられたことはないわ。
 かなりの酒量を過ごしたので、呂律(ろれつ)も怪しくなっていたに違いない。
 やあやあって、紗英子が気遣わしげに問うてきた。
―大丈夫? お酒、飲んでるのよね?
 当たり前よと怒鳴ってやりたかった。こんなことは、とことん酔っぱらって正気を手放してしまわなければ、決断なんてできない。あなたを長年の親友だと信じていた私に、あなたはそれほどのことを要求してきたのよ。その自覚はある?
 だが、有喜菜はそうしなかった。ただ感情の高ぶりを無理に封じ込んで言った。
―少しね。
―少しどころじゃなさそうよ。そんなに飲んだら、身体を壊すでしょう。気をつけてね。
―へえ、私の身体を紗英が心配してくれるんだ?
 今度は長い沈黙があり、やや落ち着きのない声が聞こえてきた。
―当たり前よ、子どものときからの友達じゃない?
 嘘だと思った。親友であれば、代理母になれなんて頼めるはずがない。紗英子が有喜菜の身を案じているのは、あくまでも自分の子どもを宿すことになる〝器〟としての私を心配しているだけ。
 そんなことは聞かなくても判った。
―判った、せいぜい、これからは気をつけるとするわ。
 それ以上話すのも馬鹿らしくて、有喜菜は携帯の電源を切った。ツーツーという発信音を空しく響かせる携帯を放り出し、有喜菜は声を上げて泣いた。
 あの男の子どもを生むという事実と、途方もないお金と引き替えに、私は何を失ったの? 自尊心、それとも、小学校時代からの親友?
 いいや、そんなものは最初からいはしなかったのだ。それとも、最初は親友であった存在がいつしか自分たちも気づかない中に、そうではなくなってしまっていたのか。
 最早、どうでも良いことだ。有喜菜は涙を流しながら、何故か大切なものを永遠に失ってしまったような気がしていた。
あれから三ヶ月近くが経った。紗英子とは既に幾度もこのクリニックに通い、互いに励まし合った。
―きっと上手くいくから、大丈夫よ。
 何度、その言葉を唱え合ったかしれない。
 だが、表面上はこれまで以上に親密になれたと思えるこの関係が、実は上辺だけにすぎない空々しいものであることに有喜菜はとうに気づいていた。
 果たして紗英子は、それに気づいているのかどうか。有喜菜は、相変わらず涙ぐんで〝良かった〟を連発している紗英子を突き放した眼で眺めた。
 どうやら、あの様子では、有喜菜が醒めた眼で昔の親友を見ていることなど考えてもいないのではないか。