全っく、どこまでもおめでたいというか、自分勝手な女。
 またしても苛立たしい想いに駆られながら、有喜菜は呟いた。
「喉が渇いたんだけど」
 紗英子がハッとした表情になった。
「あっ、そう? そういえば、そうよね。私ったら、気がつかなくて、ごめんなさい」
 紗英子は慌てて立ち上がり、傍らのバッグを手にした。
 今、有喜菜が入っている部屋も特等個室であり、贅を凝らしたこのクリニックの部屋の中でもひときわしゃれた内装である。恐らく聞いてはいないが、一日が相当の値段につくはずだ。
 有喜菜がその部屋を望んだ時、紗英子は一瞬、顔を曇らせたものの、すぐに笑顔で〝良いわ〟と頷いた。有喜菜の胎内に受精卵を戻す処置自体は無事に終わったはずだが、経過観察と用心のために、最初から一泊することに決まっていた。
 直輝が代理出産に関して、どう考えているか。それについて、紗英子は一度も語ったことはない。しかし、中学時代からの直輝の性格を考えて、彼がこの話に全面的に賛成しているとは到底思えなかった。第一、直輝が賛成している、もしくは乗り気であれば、治療に一度も顔を出さないのは不自然すぎる。
 仕事があるから、普段付き添えないのは理解もできるが、幾ら何でも一度もクリニックに来ないのはおかしい。そのことから、有喜菜はやはり、彼が代理出産に否定的なのだろうと考えていた。
 ただ一度だけ、いつもクリニックには一緒に通った紗英子が一人で受診したことがあった。それは有喜菜も紗英子から話を聞いて知っている。恐らく、その日に直輝が一緒だったのではと見当はついた。体外受精に非配偶者、つまり夫以外の精子を使うのなら別だが、夫のものを使うのであれば、夫の来院は必ず一回は必要だ。
 有喜菜は付き合いも長い分、直輝と紗英子の性格を知り抜いている。紗英子もまた、直輝以外の男の子どもを代理母を使ってまで望むような女ではないのだ。恐らく、紗英子がここまで子どもを持つことに拘るのも、直輝の血を引く子どもだからこそなのだ。紗英子にとって、他の見も知らぬ男が、紗英子自身の子どもの父親であってはならないはずだ。
 有喜菜が一緒ではなかったその日、直輝は精子を採取する処置を受けたのだろう。紗英子は最初から、直輝に代理母が有喜菜であることを打ち明けるつもりはないと断言していた。
 それに関しては、有喜菜は今のところは異存はなかった。直輝は何事もごり押しを好むタイプではないし、ごく常識的な考えの男だった。代理出産などという人為をはるかに越えた出産法について、どう考えているかは想像がつくし、紗英子と直輝の共通の友人でありながら、それを引き受けた有喜菜自身をもさぞ常識外れの信じられない女だと蔑むだろう。
 むしろ、代理母が自分であると彼に知られたくはない。彼の子を産むのは自分なのだという優越感は、一人静かに浸っていれば良い。愚かな自己満足だと言われれば、確かにそうだろうけれど、構いはしなかった。
 夫である直輝が否定的なら、恐らく紗英子は孤立無援に等しいはずである。当然ながら、代理出産の膨大な費用も自分一人で賄わなければならないだろう。自分と異なり、紗英子の実家は堅実な家庭で、父親は長年勤め上げた公務員だった。裕福ではないけれど、紗英子は実家を頼りにしようと思えば、できる立場にあった。
 そんなところも、もしかしたら、有喜菜が紗英子に隔てを置こうとする一因なのかもしれない。夫、頼りになる優しい両親、紗英子は自分にはないものを持っている。
 何故、そのことに紗英子が気づこうとしないのか、有喜菜は不思議でならなかった。たとえ子どもには恵まれずとも、少なくとも他人が羨むような夫を持ち、いまだに頼りに出来る両親がいる。手に入らない幸福を望むあまり、紗英子は身近にある幸せを見失ってしまったのだろうか。
 仮に有喜菜が紗英子の立場なら、もっと今、手にしているものを大切にしただろう。代理出産という神の倫理に反した方法で強引に子どもを得ようとするのではなく、子どもはいなくても夫と二人だけの時間を大切にしようと考えるに違いなかった。そこが、自分と紗英子の考えの決定的な違いであった。
 もちろん、代理出産が間違っているとか、悪いというわけではない。それは個人的な思惑で決めることだろうし、現実に子どもを望む夫婦にとっては、たとえどんな手段を取ろうと、赤ちゃんを授かることができるのであれば試してみたいと思うのもまた当然の心理だ。
 あくまでも、有喜菜にとっては、肯定できる話ではなかったというだけのことにすぎない。
 実家から借金をしてまで挑戦しようとする代理出産。紗英子の立場では、無駄な出費はできるだけ抑えたいところだろう。それを知りながら、わざと特別室に入りたいと望む自分もまた、どういう人間なのか。本当は部屋なんて大部屋でも良いのに、紗英子を困らせてやりたくて、高価な部屋に入りたいと無理を突きつける。
 紗英子のとんでもない依頼を引き受けてしまったそのときから、もしかしたら、自分も似た者同士になったのかもしれない。何が大切で、何が必要なのか正常な判断もつかなくなってしまった―。
 あるのは、ただ紗英子にはできないことを、この自分が成し遂げうるかも知れないという愚かな優越心と、そんな醜い自分を認めたくないという自己嫌悪。
 有喜菜がぼんやりと物想いに耽っている間に、紗英子はいつしか部屋を出ていっていた。有喜菜が喉が渇いたと訴えたものだから、慌ててジュースでも買いにいったのだろう。
 受精卵を子宮に戻す処置が行われる少し前くらいから、紗英子はどうも有喜菜の顔色を窺うような節が見られるようになった。有喜菜を苛立たせたり、怒らせたり―要するに必要以上に感情を波立たせまいと細心の注意を払っているのが判った。
 別にそこまで気を遣わずとも、この治療に影響は出ないだろうと思うのだが、当の紗英子にすれば、居ても立ってもいられない心地なのだろう。有喜菜の一挙手一投足に顔色を変え狼狽える紗英子の様子は、滑稽でもあり憐れでもあった。
 紗英子はそこまで今回の治療に入れ込んでいる、言ってみれば、背水の陣でもう後がないとまで思いつめているようなところが窺えた。直輝との夫婦間でどのような話し合いが行われているかは判らないけれど、紗英子の鬼気迫る形相を見ていると、どうも直輝の協力が今後、あまり得られそうな見込みがないのかもしれない。
 だからこそ、初めての治療にここまで入れ込むのだろう。直輝の性格から考えれば、今後、この治療をごり押しすれば、永遠に彼の心を失う怖れもあるに違いないはずだ。なのに、長年、連れ添った妻でありながら、紗英子には夫の心が判らないのだろうか。それとも、やはり、彼を愛しているから、その愛する男の子ども欲しさに何もかもが見えなくなってしまっているのか。
 有喜菜の記憶が更に巻き戻されてゆく。
 そう、あれは、まだ中学生になったばかりの頃。まだ直輝と紗英子が知り合う前のこと、有喜菜は何度か彼の家に遊びにいったことがあった。その何度目かに、直輝が勉強机の引き出しからそっと取り出して見せてくれた、大切なコレクション。
 引き出しにズラリと並んだ腕時計は、もちろん中学生のお小遣いで買うものだから、どれも高価なものではなかった。でも、直輝が一つ一つ想いを込めて大切にしていた宝物だというのは有喜菜にもよく理解できた。
 少し得意げに、面映ゆげに見せてくれたあのときの彼の表情を有喜菜は忘れたことはなかった。
 だが、最近、意外なことを知った。あのコレクションを何と直輝は長年の恋人であり妻となった紗英子には一度として見せたことがないばかりか、話したこともないという。それは紗英子自身の話から発覚したことだ。
 子宮摘出の手術後、初めて逢った時、紗英子が直輝へのクリスマス兼結婚記念日のプレゼントとして何を贈れば良いか判らない―。そう言って有喜菜にアドバイスを求めたことがあった。 
 あの時、図らずも知ったのである。普通なら、ただの友達にすぎない有喜菜などよりも、中二のときから付き合った彼女である紗英子の方にこそ真っ先に見せるべきものだ。
 何故、あの頃、彼が紗英子にコレクションを披露しようとしなかったのか。今なら、直輝の気持ちが痛いほど理解できた。
 紗英子は真の直輝をちっとも見ようとしない。夫婦、恋人とはいえ、全くの別人格なのだから、最初から互いに理解できないのは当たり前としても、少なくとも寄り添って過ごしてゆく日々の中で相手を理解しようと努力するのは自然なことだと思う。
 しかしながら、どうやら紗英子という女は、その手の努力はあまりしなかったらしい。現に何度も結婚記念日を迎えながら、プレゼントを贈るのは直輝の方ばかりで、紗英子は全く何も用意していなかったと聞いたときには、愕いた。
 与えられるばかりで、自ら与えようとしない女の理不尽さに、ただただ呆れた。そんな女を妻とした直輝が少しだけ可哀想に思えた。自分が妻なら、直輝をそんな立場にはさせないのにとも思った。
 恐らく、直輝は紗英子が自分という人間を積極的に理解しようとはしない、と、心のどこかで見抜いていたのだ。だからこそ、最も大切なコレクションを最も身近な存在である紗英子に見せなかったのではないか。
 では、何故、そんな女を彼が選んだのか。疑問は残るけれど、それは部外者の有喜菜には拘わりがないし、立ち入れない範囲のことだ。
 灯台もと暗しというが、紗英子の場合は典型的な例だろう。イケメンで誠実で働き者、しかも妻にも申し分なく優しい。ましてや、直輝が子どものできないことで紗英子を責めたりはしないのも有喜菜は知っている。
 皆が羨むものを手にしていながら、その実、紗英子には自分の手にしているものがとれほどのものなのか価値が全然判っていない。
 もしかしたら、紗英子は掌(たなこごろ)の隙間から砂が零れ落ちるように、今、手にしているかけがえのないものを失うかもしれない。でも、気がついたときには、もう遅いのだ。
 元親友として、果たして、自分がそうなることを望んでいるのかどうか。有喜菜には、もう判らなくなりつつあった。
 
♦RoundⅥ(天使の舞い降りた日)♦

 その日がついにやってきた。当日の朝、紗英子は有喜菜と共にS市のエンジェル・クリニックを訪れた。この病院には産科・婦人科・小児科・不妊治療特別外来が設けられているが、不妊治療外来は基本的に完全予約制になっている。
 既に予約を取ってあったものの、待つこと一時間。その時間が紗英子には永遠にも続くように思われた。
「矢代紗英子さん」
 やっと名前を呼ばれ、有喜菜と二人で待合から診察室へと移動する。予約制ということもあってか、待合室には有喜菜と紗英子の他には誰の姿もなかった。こういうところも、このクリニックの良いところだと思う。
 一般の産婦人科では、どうしてもお腹の大きな妊婦と不妊治療に来た患者が同席することになってしまう。それはやむを得ないことではあるけれど、やはり、いかにしても子どもに恵まれない女性にとって、幸福そのものの妊婦を見るのは辛い面がある。
 しかし、このクリニックでは、そういう精神面も配慮されていて、不妊治療外来と産科婦人科の病棟は別棟で、入り口も独立しているため、よほどのことがなければ妊婦に出くわすことはなかった。
 名前を呼ばれた紗英子が診察室のドアを開けると、担当医が待ち受けていた。
 まだ三十前後の若い医師ではあるが、院長の直弟子ということもあり、腕の方は確かだと定評がある。また患者の立場に寄り添った医療を目指すこのクリニックの医師らしく、穏やかで、間違っても以前通っていた総合病院の医師のように患者を傷つけるような発言はしない。
 紗英子も心からの信頼を寄せて治療を任せることができた。
 医師はまず有喜菜から最近の体調の変化などを訊ね、その後、有喜菜は別室で尿検査を受けることなった。
 受精卵を有喜菜の子宮に戻してから、丁度二週間が経過している。ここでひとまず、尿検査をして妊娠反応の有無を確認するのだ。最近の妊娠検査薬は精度が高いため、ほぼ百パーセントに近い確率で、妊娠していれば反応が出るという。
 しかし、反応がここで出なくても、非常に早期判定のために稀に反応が出ない場合もあるということで、更に一週間後に受診して尿検査を行うという説明を受けていた。
 この二週間、有喜菜はここのクリニックから紹介された地元N町の個人病院に毎日通い、受精卵を着床させるための注射を受けていた。これは毎日、二本ずつ打つもので、ホルモンを身体に取り込むことによって妊娠を促し、継続させる効果を期待する。
 流産しやすい体質の場合も流産止めの治療としてこの注射を行うことがあった。
 尿検査自体はすぐに終わる。有喜菜は直に診察室に戻ってきて、二人は再度、待合室で検査結果が出るのを待った。更に三十分が流れた。この時間も紗英子にとっては、果てしもなく長かった。
「矢代さん、どうぞ」
 看護士から呼ばれて有喜菜と二人で診察室に入るなり、満面の笑みで医師が出迎えた。
「おめでとうございます。妊娠されていますね」
 妊娠したのは有喜菜のはずなのに、医師は真っすぐ紗英子を見つめて祝福の言葉を述べた。それは全く不思議な気持ちであった。
 我が事であるはずなのに、我が事ではないような妙な心持ちだ。医師は次いで、有喜菜に向き直り微笑んだ。
「良かったですね。二個すべてか一個かはまだ判りかねますが、受精卵は無事に着床したようです。まだ早期なので薄い反応ですが、確かに妊娠反応が出ていますから、間違いないでしょう」
「あ―」
 紗英子は胸の底から熱いものが込み上げ、言葉にならなかった。
 赤ちゃん、私と直輝さんの赤ちゃん。やっと、やっとママのところに来てくれたのね。
 一滴の涙が紗英子の頬をすべり落ちていった。これのまでの長かった日々がフィルムを巻き戻すように脳裏を駆け抜けてゆく。
 総合病院で紗英子自身が体外受精を受けたときのこと、今日のようにやはり二週間目に妊娠反応を見たけれど、無情にも反応は全く見られず、そのときは診察室を出た後、トイレに籠もって号泣した―。
 子宮筋腫が再発して、もう全摘しかないと宣告されたときの気持ち。このまま病院の屋上に駆け上がって飛び降りて死のうとすら思ったのだ。
 これで自分は二度と赤ちゃんをこの腕に抱くことはできないのだと心が絶望に染まったあの日。
 信じられない歓びに茫然とする紗英子を穏やかなまなざしで見つめ、医師は静かに続けた。
「ただ、今はまだ本当に微妙な時期です。確かに着床イコール妊娠ではありますが、まだまだこの先、何があるかは判りません。別に脅すつもりはないのですが、万が一、残念な結果になり得ることもないとはいえませんので、それだけはお心に止めておいてください」
 予期せぬ医師の言葉に、紗英子はピクリと頬を引きつらせた。
「それは―先生、はっきり言うと、流産の可能性もあるということですか?」
 思わず喰らいつくように言ってしまい、後から後悔したけれど、こういった反応には慣れているのだろう。医師は小さく頷き、また微笑んだ。
「あくまでも可能性の問題です。そうですね。あと一週間経てば、妊娠も確定できますし、こういった体外受精だけでなく、ごく自然な妊娠においても残念な結果に終わることはあります。なので、矢代さんもあまり神経質にならないで、ゆったりとした気持ちで経過を見るようにした方が良いでしょう」
 医師はまた有喜菜に視線を移した。
「これからが大切な時期ですから、くれぐれも無理はしないようにしてください。注射の方は今までどおり、毎日、指定どおりに受けること、後は妊娠を継続させるための内服薬も今日から処方しますので、そちらも忘れずに飲んでください」
 この後、有喜菜は内診室でエコー(超音波)診断を受けた。まだ早期なので、膣の方から子宮を映して子宮の状態を見るのである。