人を嫌いになるメカニズム・・を私なりに記すことに挑戦してみようと思う。
人は人を「一」と見るから嫌いになっていくと思うのだ。
人は他人をひとつだと思っている。
前提として自分とはひとつだと思っていると思うからだ。
ひとつの自分とひとつの相手。だから嫌いになっていくのは当然のことだと私は思う。
なぜなら人とかかわるということは、気持ちのいいことと気分の悪いことの連続であり、人は記憶として気分の悪い方を強く意識するという性質があるからだ。
相手を自分を「一」と思えば、付き合えば付き合うほどに嫌いになっていくのはものの道理に等しい。
本当は人なんてただの概念であり「無」から見るとせせら笑うような話だろう。
仏教の言うところの色界に住んでいる私たち。色界とは、比較の世界のことだと理解している。
善悪、大小、良し悪し、損得・・・私たちはすべての出来事を比較で見ようとしている。
比較して初めて自分を理解できるからだ。そうやって社会になじんでいる。そこに欲が問題を起こしている。
もちろん必要欲もあるが、それさえ必要不必要の比較に値すると思うのだ。
彼岸に渡るということは、この世にいながら比較でものを見ない世界に行くということだろう。
しかしそれは万人にできる技ではない。
「有」・・・つまり色界においての捉え方として有用なのところを考えていかなければ、実世界において活用しにくいと思うのだ。
で、考えた結果、色界において人は「一」ではないと私は言いたい。
人というのは瞬間瞬間に違う感情が入れ替わり立ち代わりしているびっくり箱のようなものだ。
子供を見ていればわかる。
子供たちどおしの会話を聞いていると、その姿を瞬時に変化させていく様子がよくわかる。
仏になったかと思えば次の瞬間には悪魔になっていたりする。
マザーテレサのような慈悲に満ちた発言をしたかと思えば、残忍な性質を覗かせて母を不安にさせたりする。
仏も悪魔も人の中に存在するのだ。外にはない。
その瞬間変わっていく相手の色と、自分の放つ色が合わなかった時、相手に不適合さを感じるのだ。
そして適合と不適合をずっと続けていくと、人は危険回避能力から不適合の方を強く意識するというわけだ。
時間とともに不適合が増えていき、そのうち「この人のこういうところが好きじゃない。いいところもあるのはわかるけど、一緒にいたくない」などという感情が浮かび上がってくる。
そうやって人は人を嫌いになっていく。知れば知るほど相手を嫌いになっていく。
周りの大切な人たちがどんどん嫌いになっていき、そののち孤独を感じるようになる。周りに人がいなくなるからだ。
それは本当の孤独なのではなくて、ただ不適合に捉われた見方をしているだけの話なのだ。
捉え方を変えればいいのだ。
人は「一」ではない。目の前で仏にも悪魔にもなるものだ。今相手は悪魔なんだなと捉えることでその部分だけに嫌悪を感じればいい。しかしそれはその人のすべてではない。仏の状態の時もたくさんあるのだ。
その部分とだけ付き合う方法を考えるか、悪魔の部分に捉われた自分の感情の方を動かせばいい。
そこは状況やかかわりによって変わってくる。
「無」の世界の存在を知っておくことも大事だと思う。
「無」という世界に行けなくとも、そういう場所があることを認識するだけで柔軟性は増すと思うのだ。
今いる「有」という世界が浮かび上がって見えるからだ。
嫌い・・ということはその思いにたどり着いた種が自分の中に必ずあるのだ。だから答えは常に自分の中にあると言われるのだ。なぜ嫌いなのか? 相手に問題があるわけじゃない。相手に問題があると思う自分に理由があるのだ。なぜ初めは大丈夫だったのか? なぜその部分に捉われてしまうのか? ちゃんと考えてみるとちゃんとした答えが導き出せる。考えすぎにはならない。考えすぎはある考えに捉われた考えをしている場合に起こる。考えるならとことん広い視野で考えるべきだ。視野が足りないなら補えばいい。
補うためには人と会うことだ。
人と会って会って会いまくって比較を繰り返し視野を広げる。
考えて考えて考え抜いて器を広げるんだ。「有」の世界を知り尽くさないと「無」は普通の凡人には見えてはこない。なにせ「無」の世界なのだ。無いので見つめようがない。色界から感じるのみだろう。漠然と空間を感じるのみできることだろう。だから「空」といい、だから言葉での伝達は難しいわけだ。
あぁ・・・おもしろくて仕方ない。過去の人の考えを少しだが理解したと思うのだ。見えなかった世界をほんの少し感じれて体が喜んでいる。謙虚にならざるを得ない。感謝ばかりがちらつく。自分の生きている世界がどんなに感謝するべきことで満ちているか感じれて私は幸せだ。
そして色界に住む私のことだ。また悪魔にもなるんだ。
この瞬間にも・・・