血でできたもの | emixbubuのブログ

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ニーチェの言葉にこんなのがある。

「いっさいの書かれたもののうち、わたしはただ、血をもって書かれたもののみを愛する・・・

血と寸鉄で言を書く者は、読まれることを欲しない。

そらんじられることを欲する」


血は精神、寸鉄は心を刺す刃を指すのであろう。


血で書かれたもの、血をもって伝えたいこと、血でもって表したいもの。

何も文字に限ったことではないな。なんにでもありえるし、それでこそ真実となりえるのではないだろうか。


血や寸鉄ではないが、私の場合をみてみよう。

私が文章を書くときは書くまでに何時間も時間を費やしている。

文章自体も長いが(読んでいる人には迷惑をかけています、すみません)、書くまでに使う時間はもっと長い。

徐々に精神を一点に集中していかなくては書けない。

たとえうまく集中できたとしても、納得のいくものなど書けやしない。。。

内容は経験に付随しているものだから、まずは経験するところから始まる。そしてその出来事が過去になって、それを今の私が分析して考えや新しい意思として自分の中にいったん抱え込む。

それを文字化していくのだ、すごく集中して。


取り出そうと決めてから集中して文字化するのに何日かかかる。うまく集中を繋げていかないと途中で意識はばらける。意識がばらけたら、もう取り戻すことは不可能に近い。再度挑戦してももう同じものはできない。自分って同じ媒体を使っていてもそうなのだ。

集中というのは一時のものだけを差すのではないように思う。私が文章を書く間は何日もその状態をキープしなくてはならないもの。


そして実際に書く作業は頭で直接書いているような気分がしている。頭がペンになっているようなイメージ。周りを精神から排除しなくてはとても書けないし、途中で止まることもムリだ。何日かかけて集めた文字たちを配置していく作業。これに2、3時間はいつもかかっている。

別に私の書くものが貴重だと言いたいわけではないよ。ただ血で伝えたいというのはそういうことなのかと自分の経験を通して感じていることを言いたいのだ。

そしてそれは文章に限ったことではないと思うのだ。


私の仕事である英語教師でいる時も伝えたいことは血でもって話しているつもりだ。もちろんなかなかうまくはできない。外へ向けて発していくのはやはり集中力のいることなのだ。

まるで正義の味方のビームみたいなものだな。体からビームを発するのだ、相当に体力は消耗してしまうものだ。

人気のあるイントラからはビームが出ている。発せられているなにかがちゃんとあるのだ。それは内にはこもらず、放たれ客に届いている。客が読み取れるかどうかはまた別の話だ。

容姿が美しくて声も出ていてレッスンを間違えることもないイントラでも、人気のないのには理由があると思うのだ。ビームが内に向いているように思う。客に向かっていない。これが大きな原因で最大の問題点だろう。

そう考えるとどんな仕事でもそうだろう。企画を立てるときも、会議をするときも営業でもどちらに向かって放たれているかは大きい。主婦や母親だってそうだ。


・・・たまに私の文章をいいと言ってくれる幾人かに出会う。

とてもとても心が喜んでいる。なんというか・・・痛むほどなのだ。

この場を借りてお礼を言っておきたい。現実に会って礼を言ったとしても私の喜びの痛みは伝わらないような気がするのだ。そしていいと思ってくれる人が少しはいるということは、私は血で書けていて外に向けられている部分もある程度はあるからだろう。嬉しい。


私は血でもって書いているつもりでいる。心の中の一番大事な部分を切りとっては貼り付けている。まるで悪の大王が別の場所に心臓を保管しておくような気分だ。もちろんそれは切り貼りで完全な私ではない。私の一部にしか過ぎないが、心の一部、つまり血なのは間違いないと思っている。

等身大の稚拙な私は幼稚な内容の文章しかまだ書けないが、自分に向かって書いているわけではない。

血で伝えたい。体を切り刻んでも伝えたいことがあるのだ。この世に生まれてきた証明のためではない、利益がほしいのでもない、ただ書きたいから書いているのだ。そして書いてなにかが得られるというものでもないのだ。自分に向かって書いているわけではないので、軽く整理には繋がるがなにかを得たいとすれば、それは現実の世界でのみ掴めるものだろう。

現実の世界でうまくいかなかったことは文章ではどうにもならない。文章に期待や依存してはならないのだ。

・・・私、自分に言い聞かせながら書いているのかな?(笑) ホントにお子ちゃまだからな~


文章が力を持つときは、外に向かっているものに限られる。

涙が出るね。なんて難しいことなんだろう。調整するってどれほどに難しいことか感覚でわかり始めている。涙が出るよ。難しすぎて折れてしまいそうだ。そして難しさがわかり始めているということは、それだけ階段を登れているということだろう。まだまだだがね・・・


わかってきたよ。私は燃えさかる火炎だが、それは下がっている時もなのだ。前向きにも後ろ向きにもいつも燃えている。強い欲望の力で燃えているものだから下がっている時の力も強い。すべてを焼き尽くすつもりでいるようだ。完全にバカだな。あはっ。

苦手なストレッチやクールダウンが私には必要なようだ。嫌いだしやりたくないものたちだからこそ必要なわけだな。まだ筋トレの方がマシだもの。あまり好きではないがそれらには力を使えるから。そう、舞台が違ったんだ。熱いのでも冷たいのでもない。熱くも冷たくもないもの、それこそが必要なものなんだろう。


体に置き換えるとよくかわる。

「バランス」って大事だもの。上半身と下半身のバランス。右半身と左半身のバランス。前側と後ろ側のバランス。インナーマッスルと外筋のバランス。バランスだらけだ(笑)

私は右半身と前側と外筋が強い。バランスは良くないのだ。


燃えさかる炎をうまくまとめて外へ。伝えたいものを体に溜めきれるだけ溜めて炎とし、自分に一矢も向けることなく一気に外へ吐き出せたら、私じゃない人たちにいくらかは伝わるだろうし、私は満たされるだろう。


そんな風に文章を書いていきたい。

いつも、血で書く文章でありたい。