第3章~闇が求めたモノ~



~会いに来た~



自分がいつ、どんな風に産まれたのかなんて覚えちゃいない。

気が付いた時には、もう俺はこの姿で、人の生き血を喰らっていたように思う。

……今日この日まで、何十人、何百人、何千人もの人間を喰らってきたが、誰1人として記憶に残る者はいない。

とびきり美味い、あるいは不味い血の持ち主くらいなら2、3日は記憶していたかも知れないが、今はもう、長い年月の何処かに置き去りにしている。

6年……思えば、これだけの間忘れることが無かったということが、何よりの証なのだろう。

本当ならばあの時、あの場所で情けをかけた時点で……認めるべきだったのかも知れない。

それを“己の失態”とごまかし、“雪辱を果たす”というもっともらしい理由を付けて、血眼になって探し続けていた、という訳か……。

……確かに認めたくない、面白くない事実ではある。

この俺が……喰らうべき相手に心を奪われ、何年もの間縛られていたなんて……。

……だが、今こうしてスッパリと認めてしまうと、今まで拒絶していたことが嘘のように心が晴れやかだ。



――……それも、悪くはないな、と……。



もっとも、それは今こうして求めていたモノがこの腕に在るからなのかも知れないが……。

触れた肌から伝わってくる……命の温もり、命の音……。

今までは気に止める間もなくこの手で消し去ってきたそれが、酷く、心地好い。

そして……髪から香る、あの時と同じ太陽の香……。

ああ……やっぱりかと、そう思う。

俺が欲しかったのはこれだったのだ、と……。





……しかし、次の瞬間エレナから発せられたのは、思いもよらぬ一言だった。



「……あの時の続きでしょう?」



囁くような声には、期待に似たものが込められているように思えた。

目を閉じ、1人充実感に浸りきっていた俺は、冷水を浴びせられたようにカッと目を見開いた。

「ああ……やっと夢が叶うんだ……。やっと……。」

「……何を……言っている?」

身体を起こし、訝しげにエレナの顔を見下ろす。

まどろみから抜けきっていないようなトロンとした目で見据えられて、胸が締め上げられるような気がした。



「私……ね、此処へ貴方に会いに来たの。殺してもらう為に。」



恐れも躊躇いも、欠片も含まれてはいないその言葉の意味を、俺ははじめ、理解出来なかった……。



第3章~闇が求めたモノ~



~認めざるを得ない真意~



俺の手の中に収まっている細い指が、ピクリと動いた。

そして、己を握りしめている存在を確認するかのようにそっと指を曲げて俺の手に触れ、握り返してきた。

間違いない。

エレナはまだ生きている。

どうして死んだなどと早とちりしたのか考える間もなく、俺はエレナの上に覆い被さるようにしてその美しい顔を覗き込んだ。

手を握る力を更に強めながら――。

……何でもいいから、目を開けて欲しかった。

その瞳に、自分を映して欲しかった。

……余りの力の強さに流石に痛みを感じたのか、緩やかなアーチを描いていた眉がひそめられ、ハッキリと苦悶の表情を浮かばせる。



やがて……エレナの瞼が震えて、ゆっくりと目が開かれた。



あの時と何一つ変わらない、どんな闇にも惑わされない、澄んだ蒼い瞳……。

自分自身がそこに映し出されるのを、俺は見た。

その様は……まるで太陽の生み出す蒼い空の下で、吸血鬼である自分が立たずんでいるように見えた。

現実では決して有り得ないことだが……。

瞳に宿る光も、あの時と何一つ、変わらない。

一瞬、あの時間、あの場所に戻ったのではないかとさえ錯覚してしまう。

「……エレナ……。」

もう1度、名を呼ぶ。

返事のない、虚しい呼び掛けとは違う。

エレナの眼球が、コロッという音でも出そうな動きをして、やっと俺の存在を認めた。

視線が、ぶつかる。

俺は思わず頬を緩め、安堵の笑みさえも浮かべようとしたが、すぐに表情を強張らせた。

……俺を見て、エレナがどんな反応をするのか……急に、不安になった。

俺は言わば、エレナのトラウマだ。

6年前のあの日……恐怖から故郷を離れ、もしかしたらこの衰弱も、あの時のショックが原因なのかも知れなかった。

恐れられ、忌み嫌われ、蔑まれるだろう……そう思った。

今までの女たちと同じように……。



……何を考えている?



人間ごときに何を言われようと気にも止めなかったこの俺が……。

……恐れているのだ。

こいつに……エレナに拒絶されることを……。

――しかし、エレナは恐れて泣き叫ぶことも、嫌悪から罵声を浴びせることもしなかった。

たかだか6年では歳もとらない俺の顔を、眠りから覚めたばかりの朧げな表情のまま、しばらくじっと、見つめた。

視線が、俺の目から、鼻に、そして口元にと流れていくのが、この距離からよく分かる。

やがて……俺が誰で、かつてどこで、どうして出会ったのかも全て悟りながら、彼女は……弱々しく微笑んでみせ、薄い唇を開いた。



「……また会えたね。」



――俺はベッドに突っ伏すようにして、エレナを抱き締めた。

悔しいが……認めるしかない。

俺は、こいつを愛していたのだ。



第3章~闇が求めたモノ~



~あの日、そうしてくれたように~



窓から夜風が、吸い込まれるように侵入して来る。

頬を濡らした温もりが、風にさらわれて熱を失う。

そしてそれを補うように、目からは次々と浮かんでは零れる涙。

その繰り返し。

鬱陶しいと感ずる余裕もなく、それを拭おうとする思考さえも生まれない。

頬にこうして証を刻み込むことで他の何物も感じさせまいと、悲しみが頭を、身体を……俺の全てを支配していた。

赦されたのは、ただ泣くことだけ。

止めようとは思わなかった。

いや……正確には涙の止め方など知らなかったのだ。

これまで、自分の心のまま、欲望に身を任せて生きてきたツケが回ってきたようだった。

感情を抑える術など、必要がなかったから。

欲しいから喰らう。

嫌だから拒絶する。

光に護られた脆弱な人間とは違い、自らを護り、自らの欲望をその手で満たすだけの力を、我々闇の世界に住まう者は持ち得ていた。

だから……傷付き、悲しみにくれ、涙したことなど今までに無かった。

だが目の前に立ち塞がるのは……そんな己の欲望を満たすだけの力ではどうにもならない、絶対的、かつ残酷な程平等な力……。

頭の奥が、キンッと痛む。

それを発端に耳鳴りが起こり、身体全体が内側から揺さぶられているような気怠さに襲われる。

ふいに足から力が抜け、その場に膝を付いた。

見下ろしていた美しい顔が、目と鼻の先で揺れ乱れている。



もう、この目に映すことさえも許されないのか……!



そんな考えが頭をよぎった瞬間、息が詰まり呼吸が困難になる。

焼けるような痛みが喉の奥で渦巻き、息を吸うことも、吐くこともままならない。

どうにもならない苦痛に思わずうずくまり、女の横たわる寝台に縋るように腕を彷徨わせた。



ふ……と、指先に触れた柔らかな感触。



それは、彼女の手だった。

あの日……俺の手を包み込むように握ってくれた、小さかった手……。



――まだ微かに、温もりを纏っている手……。



それは太陽の加護とは違う……生命の温もりだった。

「…………っ!?」

無くしてしまった物を見つけたように、俺は慌ててその手を取った。

あの日彼女がそうしてくれたのと同じように……。

触れたその手に意識を集中させることで、自然と涙は止まっていた。

……弱々しく、いつ途絶えてもおかしくなさそうな程微かな血の巡り。

だが確かに……感じた。



第3章~闇が求めたモノ~



~悲しみの理由~



口を開きかけて、すぐに止めた。

魂の抜け殻となってしまった女に、今更どんな言葉をかけようというのか。

どんな言葉が届こうというのか……。

……分かっている。

死とはそういうものだ。

何を得ることも、何を感じることもない。

呼んだ所で返事もない。

無駄でしかないのだ、何をしても……。

分かっている、分かっているのに……。



「……エレナ……?」



気付けば名前を呼んでいた。

閉じかけた口を再び開いて。

喉の奥で、6年もの間この名を呼ぶことを待ち侘びていたんだ。

そうして名を呼ばれて……こいつはどんな顔で、何と言っただろう?

6年前……こいつにとっては忌まわしい記憶が徐々に頭を支配し、やがて俺のことも思い出したのか?

だとしたらあの時……。

あの時運よくその手を逃れた吸血鬼が、再び目の前に現れたことを、こいつはどう感じたろう?

たった6年永らえただけならば、いっそあの時殺されてしまっていた方が良かったと、幸運を嘆いただろうか?

……分からない。

今となってはもう、知る術もない。

この手で雪辱を果たすことも、この娘を手に入れることも……出来ない。

腰を屈めて手を伸ばした。

そっと頬に触れようとしたが……もう少しで手が届くという所で、俺は手を止めた。

娘の放つ淡い光は、太陽のそれと酷似していたから……。

……自分で言っておいて……皮肉なものだ。

太陽に愛された女は、死しても尚その大いなる力に護られている。

所詮……闇の世界に生きる俺には、手の届かない存在。

どんなに欲しても、決して手に入れることは……叶わない……。

……目が、燃えるように熱かった。

エレナを護る光が、闇しか映さないこの目を焼いているのかと、そう思った。

だが違った。

焼かれている部分から水が流れ落ちることなど……有り得ない……。



「……何っ……!?」



頬を伝う水滴も、熱されたように熱かった。

伸ばしていた手を引き戻して触れてみても、それの正体に気付くまで少しの時間を要した。

目から流れ落ちた熱い水滴……。



それは涙だった。



普通、“悲しい”と感じる時にだけ瞳から溢れ出すという、一種の感情表現……。

だとしたら……俺は今、悲しんでいるのか?

……何に対して?

雪辱を果たせなかったことが?

この娘を手に入れられなかったことが?



……エレナと、生きてもう1度会えなかったことが……?



「……馬鹿なっ……!!」



浮かび上がった1つの答え。

有り得ない、と動揺する心情とは裏腹に、涙はとめどなく、頬に筋を増やして行く……。



第3章~闇が求めたモノ~



それが意味する結末



「…………?」

間隔を充分に空けて2歩目を踏み出した時、俺は異変に気付いた。

……今まで此処へ連れてこられていた6人の女たちには、寝台に大人しく横たわっていた者は1人もいなかった。

なんとか此処から逃れようと部屋の中をウロウロと歩き回っているか、あるいは己の悲運を嘆き、絶望から放心したように寝台に腰掛けているか……。

中にはこの場所へ向かう途中の遠く離れた上空までも届く声で泣き叫んでいた女もいた。

そして俺があの窓から姿を覗かせた瞬間、その誰もが迫り来る死に恐怖し、叫んだ。

ある者は失神し、ある者は抜けた腰を引きずりながら必死に部屋中を逃げ惑い、ある者は俺のような闇の者に命を奪われるくらいならと、窓から身投げしようとした。

その女は、宙に身を躍らせる前に部屋に引き戻して腹を満たした後、息があるままお望み通り塔から放り投げてやった。

ある者は、“神の祝福”を受けたとかいう短剣で斬りかかってきた。

一気に興ざめして食事をする気にもなれず、喉を潰し両の肺に穴を開け、街の礼拝堂の屋根に掲げられた十字架の上に吊した。

ああ、聖なる短剣とやらは片手で簡単に握り潰すことができた。

呼吸もままならない中、女が何を思いながらその光景を見ていたのかなど、俺の知る所ではない。

そんな、1人1人の反応の違いというものも、普段から食事の楽しみの1つではあった。

それが……このエレナという娘は寝台に横たわったまま目を閉じ、なんの反応も示さない。

確かさっき顔を確認した時も……。



……本当に、眠っているだけなのか……?



いや、こんな殺されるのを待つだけのような状況で眠りにつける人間なんて……?

そこまで考えてから、俺はやっと、自分が国王に言い付けたことを思い出した。



――万が一死んでいたら、証拠としてその亡骸をあの場所に――



……予期していなかった訳ではない。

薄々、そうではないのかと考えもしていた。

だが……どこかで自分が、「そうであってくれるな」とも思っていたことに……たった今……気が付いた。

俺は寝台に走り寄って、娘をほぼ真上から見下ろした。

幼かった小さな身体は大人の女として成長を遂げていたが、病的な細さは変わらず、むしろ成長によってそれが目立つようになっていた。

輝くような白い肌、それも変わらない。

だが今のこの娘からは、肌の下を巡っているであろう紅い血の、あの熱い気配が感じられなかった。

瞼は縫い付けられてしまったかのようにピクリともせず、その奥に隠された、空を思わせるあの蒼い瞳を確認できない。

何故……何故?

……簡単なことだ。

今までこんな娘……何人も見てきた。

もっとも、ここまで美しい状態の屍を見るなど、はじめてかも知れないが……。

そう、屍。



エレナは、すでに死んでいた。