第4章~相容れない2つの世界~



~隣り合わせの遥かなる世界~



「……生きたくはないのか?」

細い首から手を離し、エレナの頬を、包み込むように触れた。

触れれば消える、虹色の泡に触れるかのように、そっと……。

「今まで見て来たどんな人間も皆死を恐れ、跪き、命乞いをした。」

エレナは、その大きな目を不思議そうに見開きながら、俺を見上げている。

そんな彼女に、俺は、訴えかけるように言葉を浴びせ掛けた。

「死が恐ろしくはないのか?もう何も触れることも、得ることも、伝えることも出来ない。そんな孤独の闇に墜ちることが、お前の望みなのか?……お前の居場所はそこじゃないだろう?お前の在るべき場所は、太陽の加護を受けた、明るい光の世界だ。」

……そう、はじめて会った時からずっと、そうだった。

エレナは太陽に護られた暖かな光の世界で、自身が輝くように生きていた。

闇に迷い込んだあの一時でさえ、決してその輝きが失われることはなかった。

太陽を愛し、そして愛される……それが当たり前の世界で……。

しかしそれは、太陽に見放され、そして背いた闇の世界の住人には、決して手にすることが出来ないもの……。


強すぎる光は、闇を消し去ってしまう。

そして強すぎる闇は、光の侵入を赦さない。



決して干渉し合ってはならない2つの世界。

……ならば何故、手の届く場所に在るのか。

何の隔たりも、境界線も無く……何故目と鼻の先に、全てが満たされたあの世界を見せ付けられなければならないのか……。

いっそのこと、遠く引き離してしまってくれれば良かったんだ。

そうすれば……出会うこともなかった。

そうすれば……叶う筈のない想いを嘆くことも、なかった……。



そして、それが分かっていても……俺は……。





「……死ぬのが怖くない人間なんて、いるのかな?」

長い沈黙を破って口を開いたのは、エレナだった。

はにかむような笑顔を浮かべて、その心地好い声を俺の耳に運ぶ。

「人間だけじゃない、貴方だってそうでしょう?生きる為に私を利用しようとしたんだから……。」

事実だから何も言い返せなかったが、むしろそれで良かったと思った。

言い返せば、また話が進まなくなるだろう。

俺は口出しせずに、黙ってエレナの話を聞くことにした。



……愛しい者の話を、今、聞いておかなければならないと……そう、思った。



第4章~相容れない2つの世界~



~生への執着~



「……生きてる……。」

目覚めるなり、エレナはそんなことを呟いた。

本当に、予測がつかない女だ。

調子が狂う。

……だがそんな、いつもなら苛立って仕方ないような事態にも、俺は浅くため息をついただけだった。

「……お前、さっきから何なんだ?」

さっきと同じように、これでもかと言う程顔を寄せて問い掛ける。

こいつには効果がないと分かってはいても、俺にはこうするしかなかった。

こうするしか、出来なかった……。

……エレナはやはり表情一つ変えず、じっと俺の目を見返してくる。

目を逸らしたいという強い衝動に駆られるが、そんなことをすれば負けのような気がして、ぐっと堪える。

「……殺してくれと、そう言ったな?そんなに死にたいのか?」

言葉には「望み通りにしてやろうか」というニュアンスを込め、口元には“残忍な”笑みを浮かべて更に押し迫る。

それでも、エレナは動じない。

「……何故殺さなかったの?」

それどころかこっちの問いには答えず、逆に質問をしてきた。

しかもそれは、俺が1番聞かれたくないことだった。

「……質問しているのはこっちだ。」

答えられる訳がない。

吸血鬼が“餌”と呼ぶ人間を愛したなどと……知れれば一体どんなことになるか。

人間からも同族からも蔑まれ、笑い者にされるか、下手をすれば追放されるのがオチだろう。

いや、それよりも目の前のこいつが……エレナが一体どう思うか……。

人を喰らう“化け物”に愛を打ち明けられるなど、決して気持ちの良いものではない筈だ。



……全く、何なんだ一体……。



かつての俺なら相手に……人間にどう思われようと気にも止めなかったのに……。

……今は、どうしようもなく怖い。

こいつに何を思われ、何と言われるのかが……。

「質問の順番なら、こちらの方が先ではない?」

エレナはムッとしたように口を尖らせ、顔をしかめる。

大人しい、物静かな印象があったのだが、割と思ったことは口にするタイプのようだ。

その瞳からも窺い知れる、曇りのない真っ直ぐな強い意志。

……綺麗だと、そう思った。

だが俺としても、ここで引き下がるわけには行かない。

例え惚れ込んでいようとも、人間の言うなりになるなどと流石にプライドが許さなかった。

――仕方ない、実力行使だ。

俺はエレナの首を掴んで、爪を食い込ませた。

もちろん手加減はしている。

殺す気など、さらさら無い。



……なら何故、俺は此処へこいつを連れ帰ったのだろう?



ふと、そんな疑問が頭を掠めたが、面白くない答えになりそうなので今は無視する。

「もう、少し……力を込めれば死ねるかな?……簡単なものだよ、お前たち人間は。」

俺は手に少しずつ力を足して、脅かす。

血管が、気道が狭まり、女の身体のあちこちで悲鳴が上がるのを感じる。

加減しているとは言え、多少痛みも感じている筈だ。

今、“死”がエレナの前をチラついている筈……。

それなのに……。

エレナの表情には、焦りも恐怖も、浮かび上がってこない。

俺を見上げる女からは、何の感情も読み取れない。



そんな筈はっ……!!



今まではどんな人間でも、死の陰がチラつくと恐れ慄き、吸血鬼である俺に命乞いをしてまで生に縋りつこうとした。

しかし、エレナにはそれがない。

生への執着が、全く感じられないのだ……。



第4章~相容れない2つの世界~



~記憶の中の紅~



屈めていた腰を伸ばして息をつくと、ベッドの端に浅く、そっと腰掛けた。

そうして、穏やかな顔で眠っているエレナをじっと見下ろしていると……急にどす黒い不安が腹の中に渦巻いてくる。

……堪らず俺は、彼女の口元に頬を寄せた。

此処に辿り着くまでの間にも、何度もそうして呼吸を確認した。

その度に、規則的に繰り返される微かな呼吸を頬に感じて、不安を取り去った。

今もそうして、エレナがまだ生きていることを確かめてから、顔を上げた。

そう、“まだ”生きている……。





俺は、エレナの口元に残っていた渇きかけの血を指でそっと拭き取ると、無意識に口に運んでいた。

6年前……味見程度にしか口に出来なかったこいつの血の味を、俺はしかし、その時の記憶同様よく覚えていた。

……今のエレナの血は、記憶にあるものとは大きく異なっているようだった。

血は、持ち主そのものを表す。

心身共に美しい者の血は極上の味がするし、例え顔がよくても性格がねじ曲がっているような者の血は、色ばかりが良く腐ったような味がする、まさに見かけ倒しの血になる。

更に、血はその循環の度数が増せば増す程、その味が深まると言われている。

だから獲物の年齢によっても、味に変化が生じる。

幼ければ幼い程味は薄くぼやけているし、逆に歳をくっていれば煮詰まっているかのようにきつくなる。

“何年物”を好むか仲間内でかなり割れるが、一般的には20から30年の間がベストだと言われている。

中には薄味好きのロリコン趣味の輩もいたりするが、俺の趣向は至って平凡で、特に20前後のものを好んでいた。

だから……6年前のエレナの血を口にした瞬間、俺は、まだ時期尚早だと即座に感じたのだ。



だが今は違う。



熟成しきらないあやふやだったそれは、6年という歳月を経て完全に俺好みに昇華していた。

しかし……俺はその“極上の血”に含まれる違和感に気付いた。

口内に残る後味が、苦味ばかりなのだ。

先程までのあの極上の味は、はじめから存在しなかったかのように消え失せ、口内に残るのは胸糞悪い苦味だけ。

……俺は過去に何度か、同じような血を口にしたことがある。

病に犯され、命を蝕まれている人間の血だ。

先程の吐血と、この血……。

憶測は、確信へと変わる。



――エレナは、命に関わる病にかかっている。



苦味の強さからすると、もう末期だろうとも見当がつく。

「……そんな……。」

思わず呟いた一言は、エレナの耳に届き、彼女が目覚めた。



第4章~相容れない2つの世界~



~かつての根城~



この場に階段として造られてから長い年月が経っているであろう螺旋階段を、一段一段、確かめるようにゆっくりと降りていく。

靴が石段を叩き、重い長い音が大きくカーブする階段の先へと吸い込まれるようにして消えて行く。

それを追って、俺は日中でも唯一太陽の猛威から逃れることの出来る、闇ばかりがはびこる地下へと向かっていた。

……腕に抱いた女と一緒に……。





――もう直、朝になろうとしていた。

かつては罪人を戒める牢として使われていた地下の空間は、以前俺がこの古城に住まっていた時に重宝していた場所だ。

今でもあの頃のままなら、人間でも充分快適に過ごせるだろう。

……階段が途切れ、地下へと降り立つ。

如何にもそれらしい錆びた鉄格子を蹴破ると、やはりあれから誰かが足を踏み入れた形跡はなかった。

少々埃っぽく空気も澱んでいるが、まあ……そんなものどうにでもなる。

俺はわざと強い一歩を踏み出して、靴を大きく鳴らす。

すると、部屋中の燭台に一気に火が灯り、部屋から埃っぽさがサァッと消え、空気が流れた。

……これでいい。

そう広くはない地下の全貌が、オレンジの不規則な光の中に浮かび上がる。

中央には、自分が主役だと言わんばかりに天蓋付きの巨大なベッドが居座る。

それなりに気に入っていたそのベッドに歩み寄りながら、俺は横抱きにしているその女……エレナの顔を見下ろした。

……口元には先程の吐血の痕が残っていたが、その時の苦しんでいた様が嘘のように表情は穏やかで……やはり、美しかった。

そうして、まるで壊れ物でも扱うかのようにそっとエレナをベッドに下ろすと、俺は腕に掛かっていた重みを惜しみながら、彼女の背から腕を引き抜いた……。



第3章~闇が求めたモノ~



~忘れられた場所へ~



「……なんだと……?」

何度も頭の中で繰り返し、その言葉の意味が食い違っていやしないかと思案する。

たが、出て来る答えは何度やっても同じ。



エレナは、俺に、「殺せ」と言った……。



……訳が分からない。

これまで、「殺さないでくれ」とは何度となく言われて来たが……「殺してくれ」などとは1度たりとも言われたことがない。

困惑が強く顔に表れていたのか、エレナがその、未だ夢現に浸っているかのような表情を訝しげに歪めた。

「……どうしたの?はじめから、そのつもりではなかったの?」

……まるで、古くからの顔見知りに話し掛けるかのような穏やかな口調に、思わずどぎまぎしてしまう。

それは……人間からこんな風に話されたことがないからなのか、それとも……相手がこいつだからなのか……。

「……随分と、平静なんだな?この俺を前にそんな口が聞けるなんて……。」

動揺を悟られまいと、顔を寄せて凄んでみせる。

だが……どんなに強気な女でも黙らせることが出来たそれも、こいつには何の効果ももたらさず、エレナは表情一つ、息遣いの間隔さえ乱れない。



まるで……そう、この娘からは、“恐怖”という感情が一切見られないのだ。



恐怖でしか物事を支配出来ない俺にとって、これ以上厄介な存在はない。

「……私、貴方を覚えてる。」

それはまるで、「私は全て知っている」のだと、宣告されたようだった。

今こうして、自分がどうしようもなくグラついた不安定な状態であることも、そして……この娘に、俺がどんな感情を抱いているのかも、全て見抜かれているような……そんな不安が渦巻き、騒ぎたてる。

それでも……真っ直ぐ見据えてくる空色の瞳が余りにも美しくて、じっと見入ってしまう。

「6年位前、森の中で。……暗かったけど、分かる。貴方はあの時と同じ人。あの時の……お兄さん……。」

エレナは目を細めて、微笑んだ。

それが、嫌に眩しく見えて、それとなく顔から視線をずらす。

視界の端で、その優しい微笑みを崩さないまま、エレナは言葉を続けた。

「……あの時私を殺せなかったから……だから私を探していたんでしょう?国王様まで脅して……。」

「…………!!」

エレナの言い分は、当たっていた。

確かに俺は、エレナを殺す為に国中を渡り歩き、その果てに国王を脅しにかかった。

呪縛のように纏わりつくこいつの記憶を、“忌まわしい”として消し去る為に……。

……だが真実を知った今、俺はもう、エレナを殺すことなど出来はしない。

いや……分かっていなくとも殺せなかったじゃないか……。

俺が馬鹿で、気付いていなかっただけで……初めからずっと、きっと俺は、こいつに惚れていた。





「……どうして?」

これだけ挑発されても手出しをせず、ボーッと自分を見つめるだけの俺を、エレナはあの時、あの去り際に見せたのと同じ、“困惑”をその美しい顔に滲ませた。

「6年前も、今も。何故殺してはくれないの!?私は、こんなにも……!」

エレナが肘を付いて勢いよく上体を起こそうとしたので、俺は慌ててエレナの上から退いた。

しかし……その途中でエレナは激しく咳込み、口元を押さえた指の間から、かなりの量の血が流れ出した。

「!?おいっ!!」

そのまま力無く、エレナは俺の胸に倒れ込んだ。

だが俺は……エレナを抱き留めてやることが出来なかった。

「…………!!」

俺の視線は、吐血したエレナの血に釘付けになっていた。



――欲シイ……コレガ、欲シイ……――



強い風が窓から吹き込み、背中を突き飛ばされたかのような衝撃が身体に走る。

そうしてようやく我に帰ると、俺はエレナを抱き上げて、窓から外に飛び出した。

背中に漆黒の翼を宿し、俺は、かつて住み着いていた古城へと飛んだ。



……俺とエレナが初めて出会った森の奥の奥に建っている、人から忘れられたあの場所へ……。