マンゴスチンとボンゴレビアンコに見る「好き」の違い |   EMA THE FROG

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例えば世界的に有名なプロテニスプレイヤーがいたとして、彼はなぜテニスをしているのかと想像してみる。仮に彼の名前をマンゴスチンとしよう。マンゴスチンはなぜテニスをするのか。好きだから、というのは最もありそうな理由だ。しかしマンゴスチンには他にもたくさん好きな物がある。ハリボのグミも、アボカドマグロも、ハツカネズミのペット“サンチェス”も、戦争テレビゲームのMAGも、2ヶ月前に一目惚れした郵便局員のシャローンも、SONY製のUSBフラッシュも、全部好きなのだ。その中でも一番好きなのが、テニスだとしよう。彼は何よりもテニスが好きだったので、ハリボの営業マンにならずに、あるいはゲームクリエーターにならずに、プロテニスプレイヤーになったのだ。

しかし、マンゴスチンの好きなのはテニスという<スポーツそのもの>なのだろうか。あるいは、テニスというスポーツを<プレイすること>が好きなのだろうか。両方好きなのさ、と言われれば、確かにその可能性が一番高い。でも、厳密にいってどちらが好きなのかを考えることはできる。そしてそれは、意外と重要な思考なのではないだろうか。

<テニスというスポーツが好き>だった場合、マンゴスチンは自分の体力の低下を感じるに従い、引退→テニス協会への入会を考え始めるに違いない。マンゴスチンの目的は、大好きなテニスをもっとポピュラーにする事だ。世界中に宣伝して、「テニスって何か格好良い!」といろいろな国のキッズたちに思わせることができれば、将来のプロプレイヤーの芽がたくさん撒かれるだろう。やがて彼らは成長し、目を見張るような素晴らしいゲームをマンゴスチンに見せてくれるはずだ。

<テニスをプレイするのが好き>だった場合、マンゴスチンは自分の体力の低下を感じるに従い、引退→賭けテニスの行われる裏世界への進出を考え始めるに違いない。マンゴスチンの目的は、この先もずっとテニスをプレイする事だ。思う存分テニスをプレイしながら生活するには、テニスのプレイで金を稼ぐ必要がある。表の世界でその技術が通用しなくなったとき、彼が裏世界への進出を考えるのはしごく当然のことなのだ。

こう見ても、<対象そのものが好き>と<対象を“する”ことが好き>なのとでは、考え方や行動に差が出てくるのは明らかだ。

例えば小説家志望の29歳男性、仮に名前をボンゴレビアンコとするが、ボンゴレビアンコは、<小説そのもの>と<小説を書く事>どちらが好きかと言われれば、間違いなく後者だと答える。たとえば、なんの予定もない休日を与えられたとき、誰かの書いた小説を読むよりも、自分の小説を書くことを選ぶのがボンゴレビアンコなのだ。もちろん小説を嫌いなわけではないし、誰かの作品に感銘をうけてこそ小説家を目指し始めたのは事実だ。しかしどちらかと質問されれば、「読むより書くのが好きだ」と答えるに違いない。まあ、それって僕なんだけど。

嫁に「俺、小説読むの、あんま好きじゃないのかもしれない」と言ったら、「それって致命的じゃん」と、当たり前の反応が帰ってきて、だから僕なりに考えてみた次第です。いや、でも、普通に好きですよ。読むのも。