ゴミ屋敷と『思考の整理学』 |   EMA THE FROG

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ときどきテレビで「ゴミ屋敷」を紹介しているのを見る。家を覆うほどに山積みになったゴミの山。近隣住民からは、「夏場は臭くてたまらない」「今にも崩れてきそうで近づけない」「何度も注意したんだけどねえ」といった類の(つまり、番組制作側が欲しがっている通りの)証言が得られる。リポーターはそして、その家の住居者にインタビューするのだが、驚くべき事に、彼らの言う事はだいたい同じだ。

「これはゴミじゃないんだ、いつか使うからこうして保管してあるんだ」

彼らは自信を持って、あるいは何かに怯えるような強い口調で、そう言う。確かに、客観的に見れば明らかに使い道のない様々なもの(自転車の錆びたフレームとか、工事現場にある赤いコーンとか)を、ゴミと見るか再利用可能な資源と見るかは、個人の自由だ。自由だし、実際に資源として利用できる場合もあるだろう。

しかし、家が潰れてしまうのではと不安になるほど積み上げられた「物の山」は、やはり異常に映る。そしてその印象を(悲しくも)裏付けるように、屋敷の住居者はちょっとおかしい人が多い。彼らは大抵ひとり暮らしの老人で、孤独に暮らしている。モザイクがかかっているため顔は分からず、声にもフィルタがかかっているのに、その話す内容や、感情起伏の激しさ、または服装などから、彼らが「どこかまともでない」ことは、すぐに分かる。僕をいちばん悲しませるのは、最初は敵意むき出しの対応しかしなかった彼らが、リポーターなどに対しふと心を開いてしまう場面だ。余りの寂しさから、自分を排除しにやってきた敵(この手のテレビ番組は、基本的にはゴミの撤去を目的とする)に対して、心のうちを素直に話してしまう場面だ。僕は非常な罪悪感を覚える。彼らの人生の何かが少し違っていたなら、彼らは孤独にならなくてすんだのかもしれない。家がこんなになるまでゴミを積み上げたりしなかったかもしれない、と考えて。

話は飛ぶが、飛ぶというかこちらが本題なのだが、最近『思考の整理学』という本を読んでいる。<東大生・京大生がいちばん読んでいる本>という触れ込みでちょっと話題になったから、知っている人も多いかもしれない。初出は1986年。著者は外山 滋比古。いわゆる実用書に分類される本です。

この本、面白いです。20数年前の本なので当然新しさはないけれど、なぜか古さもないという、不思議な本。今読んでも非常にためになります。ためになるというか、目からウロコ的な感動を覚える場面がたくさんあります。例えば、「グライダー人間と飛行機人間の違い」だとか、「花を見ても枝を見ない人、ましてや土の下には枝とシンメトリーになった根があるんだぜ」とか、「PC登場後の人間は、知識をつめこむ倉庫であっては負けてしまう。これからは何かを生み出す工場たれ」とか、「忘れる事こそ、すばらしい」とか。

学生でなくなって久しいので、今の学校教育がどんな様子なのかはわかりませんが、この本の書かれた1986年同様、僕が受けたのはやはり「詰め込み型」の教育だった。「覚えろ覚えろ覚えろ、忘れるな忘れるな忘れるな」教師たちはそう口を揃え、そうでなくてはいい学校には入れないと脅した。確かに、それは事実だっただろう。いかに英単語を暗記するか、いかに漢字を覚えるか、いかに地名を覚えるか、いかに歴史を覚えるか、大学入試とは明らかに、その「知識量」を測るものだった。僕らはとにかく知識を頭につめこみ、つめこんだ状態で息を止めて、できるだけそれらが出て行かないように努力した。息を止めたままテストを受けて、テストが終わったらぜんぶ忘れた。次のテストが近付けば、僕らはまた息を止める覚悟をしなければならなかった。

『思考の整理学』の中で著者は、「もっとも原始的な思考の整理方は、忘却だ」という。忘れる事がうまく出来ない人は、脳みその中が常に情報でパンパンになっており、新しい情報をしまうスペースがないばかりか、いま持っている情報を見つけようと思っても、膨大な情報の中からそれを見つけ出すのは非常に難しい。そんな人はは確かにいろいろな事を知っている「物知り」かもしれないが、知っているだけでそれを活かす事ができない。何でもかんでもつめこむものだから、情報に一貫性がなく、あるいはスタイルがなく、ただの雑学王になってしまっている。それでいて、その雑学を活かす事はできない。倉庫のように、それをしまっておくだけで、工場のように、他の何かと組み合わせて新しい何かを生み出す事はできない。しかも彼は、その倉庫のどこに何がしまってあるのかさえ把握できていないのだ!

冒頭に僕が「ゴミ屋敷」と書いたのは、この「頭でっかち君」の脳みそこそ、まさにゴミ屋敷と同じではないか!と気がついたからだった。詰め込み型の思考は、往々にして「ゴミ屋敷くん」を生み出す。自分でもなぜしまっておくのか分からない無駄な情報に圧迫されながら、それでも「いつかきっと役に立つから」と信じてどれひとつ捨てる事ができない。そのうちに脳内の空きスペースはどんどん狭くなって、彼にとって本当に必要な情報に出会えた時にも、それをしまっておくスペースがもうない!という事になる。

著者は「忘れろ」という。また、「その際は価値観を大切に」ともいう。なるほど、と思う。つまり、何も考えずに情報を仕入れ、何も考えずに忘れていってはいけない。それは思考の整理じゃない。ただ情報が脳内を通り過ぎていくだけだ。つまり、価値観に沿って必要な情報を収集し、価値観に沿って不必要な情報を捨てる。それこそが思考の整理なのだ。必要か不必要かを判断する価値観、つまり「基準」が必要だ。そしてそれを決めたなら、その価値観を信じて忍耐強く頑張らねばならない。

あれ?これってこないだ書いた「ほんとに成功する法則」に似てるなあ。なるほどなあ。