今回は人生の途中で障害者になってしまう魂的な意味についてのお話です。
病気や怪我、事故、予防接種など様々な理由で人生の途中で障害者になってしまうことがあります。
テレビやYouTubeでこうこうこう言う理由で障害者になりました、と理由を聞いたりすると感受性が敏感すぎる私はとても辛い気持ちになります。
この選択をしなければ、この日ここへ行かなければ、健康な体ならこんな事に打ち込みたかったのになど悔しい気持ちもすごく伝わってきます。
しかし3次元的視点から視座をどんどん上げ天界から魂のルールに則って視ていくと、とても理不尽に思える理由で障害を持ったとしてもそれがその人の魂の経験のためだと言うことがわかります。
信じたくないでしょうがその多くは生まれる前に障害を負うことを設定してきた人生になります。
全てではありませんが前世で障害者に辛く当たっていたカルマの影響もあります。今世で障害者がどんな気持ちでいるかを知るためです。
いずれにしてもこの苦難にどう立ち向かい乗り越えていくのか、というところが魂の経験の上で求められている事になります。
障害者になった時に、ただ恨み言を唱えて家の中に閉じ籠り生きていくのか。
それでも自分には出来ることがある、と前向きに立ち向かい乗り越えていくのか。
障害者は皆元気に振る舞えと言っているわけではありません。
辛い気持ちを抱えたまま生きていくのも魂それぞれの自由であり経験です。
ただ乗り越えられたほうが魂の学びとしては深まると思います。
宿命と運命で言えば障害を持つことは宿命として決められていた部分、その後鬱々と過ごすのか明るく過ごすのかが運命の分かれ道になると言うことです。
パラリンピックの選手やそれぞれの分野で頑張っておられる方はたくましくハートの強い方だなと尊敬しております。
しかしそんな方ばかりではなく何か取り組みたいと思っても色々な症状でやりたいことを見いだせない方もいるでしょう。
それでもただ恨み言を唱えるのではなく明るい気持ちでいられるような心の持ちように出会えたらいいなと思います。
社会全体も人ごとだと思わずバリアフリーな仕組み、心でいることができればそれが来世の自分のためにもなるのです。