今日は私の大好きな中田裕二氏の新譜発売日である。朝起きてすぐダウンロードした。普通ならば店頭に赴いて封を切って、という工程があるものなのに親指ひとつでなんて便利なんだろうと思う。まぁいうてその工程も好きなのですが。そして今作品は、店頭には置いてありません。中田さん個人のレーベル発だからです。中田さんといえばテイチクだったが、椿屋20周年を機に出られたそうで。今レーベル探してるって音楽と人に書いてあった。



めちゃくちゃ正直なこと書くと、私CDはまだ購入していません。最近気づいたけれど、順番が変わって来た。サブスク聴いて良かったら買うという考えになっている。それはお金の話というよりか溜まっていく在庫のことが意外と大きくて、例えば私の実家の棚には学生時代に集めたCDやDVDがわんさかある。コレクションとしてはいいが、聴いてないものがほとんど。先日実家に帰った時、十数年放置された棚を見て「これどーすんだ……」と力無く思った(ちなみにサカナクションと椿屋は持って帰ってきました)






これからまだまだ音楽は聴くつもりだし、手当たり次第に買うというのも所持するストレスが発生することに気づいてしまった。ということで、これは是非とも手元に置きたい、というものを購入する思考になってきている。では肝心の中田裕二の新譜について。



買ってもいいかなってなってます
(小並感)



もうね、多分私は中田裕二の作るコードやメロディがモロ好みなんだと思うよね。真新しさはないし大きな衝撃とかもない。ビターネスなんて80年~90年代の香りしますし。それは時代というより、ジャンルというより、中田裕二の音楽でしかない。いつも中田裕二の色と味があって、私はそれにどうしても共鳴してしまうらしい。中田裕二の作るものは大体美味しいんである。今朝早速聴きながら音楽と人を読んでいたら、そこにはポップな仕上がりと書いてあった。中田さんはこれまでで1番ポップとも言っていた。丁度2周目のビターネスを聴いていた私はマジで?!ってなった。ポップという単語の意味を「軽さ」ととらえるならばたしかに前作のような「重さ」はなくなっていると思うが……聴こえる歌詞がやっぱり重いのだ。中田裕二は毎度メロウに聴かせすぎていてポップの基準がだいぶ低くなってるのかも知れん……「中田裕二にしてはポップ」である。ミドルエイジのポップここにありといったかんじである。



中田裕二のいいところは、年相応なところだとも思う。と書くと年相応じゃない人が悪いととられそうだがそうじゃないよ念の為。中田裕二に感じられる「諦め」みたいなのにどうにも私は共感するのだ。



椿屋四重奏時代の若い熱量や「もがいてる感」も魅力ではあったと思うが、私はなんだかんだソロに転向してからの彼の音楽のほうが性に合う。それは私も今ミドルエイジに差しかかりつつあるからだと思うが。大人に向けた歌を書いてくれるところがとても好きだ。大人も大人なりに色々考えることありますしね。んで大人も諦めてるようで諦めてないですしね。また聴き込んだら感想も変わるのでしょう。初日はこんなもんで。