ふと思ったことがある。私はこの人生で色んな人を強く好きになり、熱量もって推してきたけどその対象は圧倒的に男性が多い。歌手なら女性は椎名林檎とでんぱ(夢眠ねむ)くらいしかいない。女優なら山口智子。著名人なら東村アキコだけ。あとはほぼ男性。対して、男性は割と女性を推していることが多いように思う。これは異性だから好きとかそんな簡単なことでもないような気がする。



カネコアヤノさんの音楽を職場で耳にすることがある。誤解を恐れず言えば女版小山田壮平だと思う(めちゃくちゃ語弊あるな・悪意は無い)。メロディーやコード、曲の雰囲気、ひいては発声まで壮平さんみたいだと思うことがある。でも私は彼女の音楽をしっかりと聴いたことがないので、音楽的な本当のところはどうかわからない。ただ、壮平さんの音楽を聴いた時のような、どこか切なくて、孤独で、でもそれが儚くて尊いみたいな、そんな似た性質の芸術を感じた。これは個人の感想かもしれないが、彼女の熱狂的なファンは男性が多いように思う。



でだ。私が彼女の音楽を今でも身近に感じられないのは、同性だからではないかという結論に至る。逆に言えば、何事も異性だから触れやすいというのがもしかしたらあるんでは無いか?と思うんである。簡単にいえばこれは嫉妬というか、無力感というか。わたしは同性だけどカネコアヤノさんのようには歌えないし生きられないんです。そこが純粋に楽しめないポイント。という仮定です。



その証拠に、といおうか、私は中一のときに椎名林檎「下剋上エクスタシー」を文字通り擦り切れるほど観て(当時VHSですから)、大好きと言う気持ちとともに深く落ち込んだものです。私はこの人にはなれないのだと悟った。アホか当たり前やんけという話なんだが、私はどうも好きな人に自分の姿を見ているんである。それはシンパシーだったり、憧れだったりもするけど、実は自分と違う世界の人とはあまり思ってない。だから、結構素直な気持ちで会いたいとか思うしなんで私会えんの?とか普通に思うし自身の夢にも出てきてしまう。



話が逸れた。つまりは、私は絶対になれない「男性」という存在に安心感をもって近づけるんだろう。私が壮平さんの音楽を安心して聴けるのは、身体的な部分で彼にはなれないとわかっているからだ。彼の持つ世界観も生き方も放つ声も女性のそれとはやはり違う。違うから安心できる。そして違う生き物として、共通点を見出そうとする。見いだせた時はとても嬉しい。なりたいな、なれないな、でもここは似てるかもしれない、と勇気をもらえたりする。こんなん私だけなのだろうか。私は男性になりたいと思うことがよくある。なれないということが明白だからかもしれない。