アンディウォーホルのバッグを見つけたから買った。可愛いすぎて店頭で数十分考え込んでしまった。また見つけたら色ち買い(イロチガイ)してしまいそうだ。するに違いない。アンディウォーホルのことは当たり前に知っていたけど、興味を持ったきっかけが昔andymoriというバンド名がアンディウォーホルとメメントモリからきた造語なのだときいて·····という人はさてどのくらいいるでしょうか?昨日はこのバッグをもって、行きつけのカフェでアンディウォーホルについての本を1日かけて読んだ。




アンディウォーホルはすごく魅力的な人だと思う。個人的にめちゃ好き。作品はもちろん、あの中性的な雰囲気とか、かなり政治的な作品なのにそこに深い意味を語らなかったあまのじゃくさとか、そんな彼の哲学とか。そしてなんでか坂本慎太郎のことを思い出したので書く。グレープフルーツちょうだいという曲のこと。


ゆらゆら帝国のグレープフルーツちょうだいという曲、私はこれが大好き。グレープフルーツちょうだいでググれば【グレープフルーツちょうだい 解釈】で出てくるからもう、日本人が大好きだと私は叫びたくなる。願わくばグレープフルーツちょうだいの歌詞の意味を坂本さんに一度聞いてみたいところだけど、それはまぁ·····グレープフルーツちょうだいっていう曲です。とか言われそうよな。そしたら拍子抜けするしかないんだけど、でもあの人のことだから絶対そうだ。お前の田んぼが好き、という曲を聞いてほしい。あれもそういうことだ。とりあえず【グレープフルーツちょうだい 解釈】で導かれるまま検索してみたらその通り歌詞について述べてる人が数名いた。驚いたことにその解釈は様々!私なんかはもう単純にエロやろこれはと実に端的な物言いをしてしまうわけだけれど、もっと詩的な人もいたし助詞や一語一句に触れてもっともっと深読みしてる人もいた。実に面白い。やっぱり歌はアートだと思う。解釈で変わるんだから。


ウォーホルの代表作にキャンベルスープ缶の絵があるんだけど、そこに受け手は様々な解釈を乗っけた。それでもウォーホルは、表面だけ見てほしい、裏には何もない、と最後まで言い切った。彼なりの哲学が現れてる言葉だけど、そこには単純にシャイだった彼の性格とか、ある種の闇とか、そういうふうなものも感じられる。それだって真意はわからんのよ。人は作品にも作者にも、見えないものを想像をして、自分なりの答えを見つけたい。そこでアートは完結する。つまり答えは人の数だけあって、作者すらその答えを知らない、こともある。


キャンベルスープに資本主義を見たように私はグレープフルーツにエロを見たけど、グレープフルーツちょうだいだって冷蔵庫の中のグレープフルーツを食べる歌かもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。受け取り方はなんでもいいのだ。自分なりのストーリーをもって相対するから、自分にとってのかけがえのない芸術になる。私はそんなウォーホルと坂本さんのスタイルが好きだ。粋を感じる。そしていま新たな発見なんだけど、その曲というよりか、その曲に感動している自分に感動しているのだと、ようやく気づいた!


 
妄想と考察