ミサエ


宗男が通りすがり


サバオ


ミサエ


ちょっと座ったら、トコトコ、視界に猫が増えてきます。






ミルミルをじゃらしてあげます。

少しだけ、遊んで、じゃらしを取らせてこちらが手を離したら、
その瞬間、もう、遊びません。
じゃらしと遊びたいのではなく、じゃらしの向こうの私と遊びたいのよね(^_^)











ハリーのために敷いていたペットシーツは片付けました。
ロボットトイレが来る前は、他の子でもシーツを使う子もいたのですが、ロボットトイレが来てからは、シーツはハリーだけだったので。
この作業、ほんの数秒の手間ですが、かなり寂しいです。


チェシャ。考えていたより、おじいさんかもしれません。
 
 
ハリーは、町内会会長さんでしたから、居間の猫たちのしょんぼりは、とても顕著です。
新人の猫が来たときに、争いにならないよう、「まあまあ、わかいの。ゆっくりしてけ」って感じで、ボスとして威張るのではなく、優しく、ほぐすような、そんなオーラを出してる猫でした。
どうも、私の猫たちは(保護猫含む)、私が甘えん坊で庇護の必要な存在だと思ってるようで(^_^;)、「ほら、ナオちゃん、気をつけてよ」「大丈夫?」そんなことばっかり。
そんなに頼りないかなあ・・・と思う反面、
ハリーに、一人置いて行くのが心配だと言われたら、甘えて頼っていたのは私だったかもしれないと・・・
 
最後、付いててあげましたけど、
本当は、元気な間、長い長い元気であった時間、
その時間も、付いているべきです。
死にそうになってからではなく、死んでからでもなく、
生きてる間に、かわいがらないと・・・・
 
フランツ=リストという作曲家の「愛の夢 第三番」という、主にピアノバージョンで演奏される曲があります。
これは、元は歌曲で、私が十八番にしているものです。
ゴンタ君が亡くなった年のコンサートで、富良野初演奏でした。
「愛せるだけ愛せよ。彼が死んでしまってから、いくら言っても分かってもらえない。生きてるときに照れたり、からかったりするのではなく、ちゃんと愛しなさい、生きている間に・・・」
これは、恋人をからかってる女性をユーモアを含めてたしなめるお茶目な詩なのですが、真理ですよね。
 
ハリーは、私個人の猫ではなく、みんなの猫でしたから、本猫もそう望んでましたし、でも、私が愛せるだけ、愛したと思います。みなさんも、みなさんの出来る限り、愛してくれたと思います。
 
 
保護猫は、「時間と愛」が、十分ではありません。
どうか、保護猫たちが、新しい飼い主さんと共に生きることができますように!