僕はBBQのような肉料理を作るのが大好きだ。数キロもある塊肉を時間をかけて調理するのは、上質な大人の愉しみだと思う。最近は肉食ブームが続いているので、韓国風の焼肉や上等な和牛のすき焼きなどだけではなく、赤身肉を塊で調理するような、西洋風の肉食文化に則った本格的な肉料理もポピュラーになってきた。コロナ禍でのキャンプや野外料理ブームもこうした流れを後押ししている。
さて、これは肉料理に限ったことではないのだが、最近は伝統的な調理法を見直し、科学的に分析した手法を用いてアプローチするやり方がポピュラーになっている。例えば、麺のゆで方や出汁のとり方等を、伝統的な手法にとらわれずに、分析や実験データをベースに見直していくものだ。こうした情報はTV 番組でも盛んに取り上げられるし、様々なメディアにも溢れている。もちろん、それらは理にかなって納得できるものが多いのだが、僕自身は伝統的なやり方にも表面には現れない様々な含蓄があるのではないかという思いがあり、簡単にそれを全面否定するつもりはない。
肉料理に関しても、同様に科学的なアプローチが盛んだ。しかし、僕は肉料理に関してはこうしたアプローチに対して他の料理よりは肯定的だ。それは何故か。それは肉料理に関しては日本は後進国だという認識があるからだ。そもそも我々には肉料理の伝統というものが存在しない。それゆえに伝統に依拠することが困難で、経験的な知恵がない。であれば、むしろ初めから科学的な知見をベースにした方がわかりやすいと考えるからだ。
さて、僕が肉の科学的な調理に関する本で最初に手にし、以来とても参考にし、今も折に触れて読み返しているのが今回紹介する「大人の肉ドリル」だ。著者は松浦達也さん。本の前書きには『本書では「家の肉を美味しくする」ために有効だと思われる論拠を学術論文や各種文献からひもといた。家庭の台所でも応用できそうな手法を徹底検証して、普遍的に使える要素を抽出して、レシピという形にまとめた。』(4p)と書かれている。
この本の中では様々な肉料理のレシピが紹介されている。順番に言うと、先ずステーキやローストポーク等の塊肉、次いでおかず系のから揚げやしょうが焼き、その後は挽肉を使ったハンバーグやシュウマイ、そしてハムや肉の味噌漬けなどが「漬け物」として取り上げられ、最後の方ではパテ・ド・カンパーニュ等の手間のかかる料理を経て角煮やビーフシチューのような煮物で終わっている。
各レシピは壱、弐、参のポイントが先ずトップに記され、次いで材料と作り方が紹介される。その後は各パートの後のコラムの中で作り方の背景が科学的な解説を交えて説明される。解説は何れも納得がいき、目からうろこ的な話も多い。ただ全体に言えるのだが、著者の松浦さんには押し付け的なところが全くなく、あくまでも客観的な記述が多い。いくつかのレシピでは基本レシピと異なるレシピも何種類か調理してそれらを比較している。この場合も、客観的にそれぞれのレシピの特徴が述べられていて、良い点悪い点の指摘はあるが、基本レシピが最高で他はダメというような記述は全くない。こうした松浦さん独特の科学的というか論理的な書き方が理系の端くれである僕にはとても好感が持てる。松浦さんは前書きでも『「味」には万人に通じる”正解”はない。だが、理屈がわかれば自分好みの方向へと味を自由に展開させることができるはずだ。』(4p)と書いているが、まさにこの通りのスタンスだ。
では本のレシピに沿って料理を作ってみよう。最初は本書の中の最初のレシピであるビーフステーキだ。コラムには「おいしい肉」の法則として以下のような大原則が述べられている。
『つまり”うまさ”には一定の「やわらかさ」と「ジューシーさ」が深くかかわっている。そして「かたい←→やわらかい」「ジューシー←→ボソボソ」には、肉の温度が密接にかかわっている』(13p)、『超ざっくりいうと、肉は60℃を超えたあたりで水分が絞り出されて固くなるということだ。75℃まで温度を上げてしまうと、悲しいことに肉汁はほぼ肉の外へと流出してしまう。「肉汁に正しい定義はないが、一般に肉の内部の水分と脂分が液状化したものとされる。肉汁がほしいなら内部温度を60℃台にとどめなければならない。この法則はステーキ、焼肉、ポークチャップ、から揚げなど、煮込み料理以外の焼く、揚げるすべての肉料理に通じる。』(13-14p)
肉好きならこのくらいは基礎知識として備わっているかもしれない。ただ実際にステーキの焼き方を本やネットで調べるとわかるが、百のものを読むと百通りのレシピがあると言っていいほど方法は千差万別だ。大抵のレシピでは「こうしなさい」ということは書いているが、「何故こうするか」についてはほとんど触れておらず、実を言えば長年僕も一体どれが正解なのか判然としないでいた。
松浦さんのレシピでステーキを焼くポイントは1.肉の表面だけ、きっちり焼き上げる、2.温かい場所で休ませる、3.焼け具合はOKサインの固さで判断、という三つだ。これは先に挙げた大原則に基づいたものだ。そして実際に行う焼き方は「10秒焼いてて2分休ませる」を繰り返しという極めてシンプルなものになる。
今回はちょっと珍しいアルゼンチン産の牛肩ロース250g2枚を野外で厚手のスキレットを使って調理した。鋳鉄製のスキレットは温度が下がりにくいので、僕はステーキを焼く時は室内でもいつも利用している。
肉は先ず1時間以上前には冷蔵庫から出して室温に戻す。これはステーキを焼くときの基本的な鉄則だ。続いて肉に塩コショウをして熱したスキレットの上に乗せ各面を10秒ずつ焼いていく。本には表裏を焼くと書いてあるが、僕は肉がある程度厚い時は全表面を焼くことにしている。
肉の各面を一巡して焼いたら皿に移して、温かい所で2分ほど休ませる。この暖かい所の大意は火の側でということで、基本的には肉を冷まさないようにするという意味だ。
2分経ったら再びスキレットに肉を移して同じように肉の各面を10秒焼き、再び皿に戻して2分休ませる。
これを数回繰り返していく。経験上250gくらいのステーキ肉だと大体5回くらいが適当な回数になる。これで通常は表面に焼き目が程よく付き中はミディアムレアに仕上がる。
上の写真が今回の完成品。焼きと休憩を5回繰り返した結果だ。表面は所謂メイラード反応で程よく焦げ目が付き、肉の内部はミディアムレアという理想の状態になっている。この「10秒焼いて2分休む」という方法は誰でも失敗なく確実に美味しいステーキが焼ける素晴らしい方法だと思う。実際この方法を知って以来、僕のステーキはこれ一本だ。このレシピで僕の「大人の肉ドリル」に対する信用度は確定したと言ってもいい。
次のレシピはビフカツだ。僕は生まれも育ちも北海道なのでビフカツというのは普段めったに口にすることがない。だがその美味しさにはとても惹かれている。
それまでビフカツは揚げる加減がよくわからなかった。大人の肉ドリル風のポイントは1.火入れは余熱で。高温の二度揚げ、2.目の細かいパン粉でカロリーオフ、3.理想の厚さは2cm、というものだ。具体的には油で30秒上げて3分休ませるを2セット行う。結果は写真のように中がレアで口当たりが柔らかいビフカツが出来上がる。
第三章では挽肉レシピが取り上げられる。ここでお薦めなのが肉シュウマイだ。シュウマイは餃子に比べるとどこかマイナーで、あまりレシピが取り上げられることがない料理だ。
ポイントその1は肉と塩分で結着をよくすること。そのためにはよく練ることが秘訣で、これで食感が良くなる。ポイントその2は具材の玉ねぎと長ネギには粉(片栗粉)を振ること。これは旨味を含んだ水分を素材から逃さないため。その3は蒸す時は盛大な湯気は必要なく、弱めの火力で鍋の湯が沸騰さえしていればOKというもの。難しいことな何一つない。
ひき肉で重要なのは特に1の結着のようだ。本文には『肉は低温で塩を加えて、しっかりとこねるとたんぱく質の組成が変わる。組織が強く結びつき(粘着)弾力ある食感が生まれる。大切なのは「新鮮な肉」「塩分」「低温」という3つの条件」』(71p)と書かれている。
僕はこの本を読んで初めてシュウマイを手作りしたのだが、その後は中華せいろまで買って何度もリピートすることになった。
冒頭で述べたように僕はBBQの大ファンで、海外のレシピを参考に塊肉を使った「スモーク」や「ロースト」をよく作っている。海外のレシピも日本と同様に「こうしなさい」とは書いているが、「何故か」はあまり書かれていない。肉食文化の伝統はあるにせよ科学的なアプローチに関しては海外も日本もそう変わりはないのかもしれない。「大人の肉レシピ」には肉調理に関する様々な疑問に答える知見が書かれていて、これを読むと一般的なレシピの背景も見えてくるようになる。肉料理の入門書として今も僕のお薦めの一冊である。