ごぶさたしています、課題に追われていてたった今解放されたところです。
やった!
記事の前におしらせ。
じゃーん!
私の友人である無職さん が、このブログのバナーをつくってくれました!
ほしいなあと言っていたら、作ろうか?と言ってくれて。
感謝です。もうかれこれ一年ほどファンです。かーわーいーいー!
無職さん、ほんっとにありがとうございました!
このブログは、いっぱい広めていろんな人の意見を聞きたいと思っています。
だからね、こう、視覚的にも興味を引くようなものがほしかったのです。
もしリンクしてくださるという方がいらっしゃれば、ぜひぜひこのバナーを使ってください。
ご報告いただければ喜んでお邪魔いたします。
さて本題にはいりましょうか。
この間電車を待つ間、本屋さんで新書コーナーをながめていたら
こんな本を見つけました。
面白かったのでご紹介。
とはいってもまだハムレットのあたりしか読んでないんですけど。
- 大場 建治
- シェイクスピアを観る
『ハムレット』という戯曲は、皆さんご存じの通りとんでもなく長いのです。
数ある版本の中で「完全版」(complete text)とよばれるものの長さは約3800行。
(版に関してはまた詳しく整理します。)
この本によると、シェイクスピアの戯曲の平均が約2900行ほどということなので
これはもう異常に突出した長さだと言える訳です。
『マクベス』の二倍近くにもなるらしい。
だから、『ハムレット』を上演するにはまずこの長い長いテクストをカットしなければならなかった。
だってこの3800行、全部やってたらどんなにテンポを速くしても五時間はかかる。
五時間!
そんな長い間座ってなんていられませんよー。
という訳で上演の際はとにかく大胆にカットを施さなければならなかったのです。
オリヴィエ版の映画みたいにフォーティンブラスが不在のもの、
四つあるハムレットの独白を大幅にカットしたもの(「独白しないハムレット」だって。うまい!)
などなど。
また、上演当時の社会事情に応じてカットの基準もかわってきます。
そうすると、自然と脚本にあらわれるハムレット像も大きく転換してしまうのです。
うじうじと何度も叔父の殺害をためらう独白のシーンを大幅にカットしてしまえば
行動的で冒険心に富む復讐者が舞台に上がることになる。
「腕の強い(男)」という意味の名をもつフォーティンブラスが不在なら、
優美繊細な苦悩するうら若き貴公子が浮かび上がってくることでしょう。
そうなのです、ハムレットの上演の歴史はカットの歴史そのもの。
そしてその歴史に沿ってハムレットも性格をかえてきました。
20世紀にはいると今度は完全版上演が流行したらしいのだけれど。
映画でもブラナーがつくったりしてるしね。
『ハムレット』を上演するなら、テクストとの対決を免れることはできない。
これがこの本の結論です。
おそらくあらゆる意味でそうなのでしょう。
とても興味深い本でした。
ハムレットを演じる役者のことに関してもいろいろ書いてありましたが、今回はテクスト研究ということでこのテーマに絞って書いてみました。『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を研究しようとしている私にとって
やっぱりハムレットの裏というのはとても気になるもの。
『ハムレット』はとても謎が多く残されていると言われていて、
「演劇のスフィンクス」なんて呼ばれたりもしています。
だから未だに様々な演出家が趣向を凝らしてそれぞれの演出をする。
私は最近、こう考えるようになりました。
ハムレットには、隙が多すぎる。
だってみんな、表しか見えてないんだもの。
オフィーリアなんてただのいい子ちゃんだし、
ホレイショーなんてうさんくさいほど好青年。
クローディアスの気持ちが知りたい。
ガートルードの心が読めない。
だから、裏をのぞいてみたくなる
オーソリティであるからこそ崩したくなる
そういう心理を煽る要素があるんじゃないかなあなんて思っています。
読み始めたばかりの小娘の第一印象はこんな感じです。
いろんな解釈があると思うの。
その解釈に基づいていろんな映画が作られてきたし、そのどれもにそれぞれの説得力がある。
これってすごいことだとおもいませんか?
うまれてから400年も経っているのにどんなに研究されても切り口が尽きないなんて。
よろしければ、みなさんの意見もお聞かせください。
きっと面白いと思う。すごいや。