突然の訃報
彼は、無事Lofoten Ultra 100 milesを完走した。
最後の関門を2時間も前に通過し、個人レース76人のうち37位という快挙の結果を得た。ちなみに、リタイヤしたのは29人だった。
今回は天候が良かったせいか、割と長いこと離脱する人も少なかったように見えたけど、やはり最終的にはそれなりにリタイヤ、あるいは関門に間に合わなかったか。
なんと彼は、序盤で転んで膝を岩にぶつけてしまったらしいが、少しずつ腫れてきたがレース中は速く走ることも可能で、終わった途端痛みを感じるようになったそうだ。どれだけ。。。
とにかく、三度目の正直で、完走を達成し何よりである。
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レース中の彼と、茶会のことで気持ち的にバタバタしていた土曜日の朝、恩師の奥様がラインで、恩師が朝闘病の末に亡くなったと知らせてくれた。
先月まで、研究会の知らせを含んだメール通信が配信されていて、ご病気のことには一切触れていなかったので、とても驚いた。
去年の秋にも学会に参加されていたと聞いていたような気もする。
81歳とはいえ、ずっと研究活動をされているようだったので、まさかそんな重い病気になっているとは思いもしなかった。
退官されてから、ご自分の理論をさらに追求するようになり、70歳を超えてからさらに確立されている理論をかなりアグレッシブに攻撃するような論調に恐れをなし、おそらくここ7年くらいはずっと不義理していたことも後悔させられた。
恩師の存在無くして、今の私はあり得ない、私の人生におけるキーパーソンだっただけに、やはりとても悲しかった。
研究室で、あまりに尖った性格に他の学生に嫌われていた私をずっと気にかけてくれ、優秀な研究者の方々を紹介してくれたり、国際会議にも連れて行ってくれ、ヨーロッパの旅を4人でしたこともいい思い出である。
ウィーンから入り、車でハンガリーに入り、ブタペストで知り合いの研究所を訪問し、さらにスロバキアに移動してブラチスラバで学会発表をし、その後はドイツに移動してデュッセルドルフで学会に参加し、ロードトリップしてハイデルベルグで先生とは別れ、学生3人で北上してデンマークを訪れ、デンマーク工科大学を訪問した。
今の同僚は、先生とアメリカの学会で知り合い、同僚のサンプルを測定してあげてコラボが始まった。同僚が2ヶ月の研修で研究室にきて、研究のディスカッションをした。その時にお願いして、同僚を訪ねにデンマークに行ったのである。
出産結婚で東京を離れ、研究から離れた私を残念がったのも恩師だった。
先生の本を英語に翻訳する仕事のオファーをしてくれ、かろうじてアカデミアの空気を吸う機会を与えてくれた。その打ち合わせで研究室に伺った時に、元上司であるデンマーク人女性と出会い、PhDプロジェクトのアプリケーションに働きかけてくれた。
島根でろくな仕事をしていなかった私がアカデミックの世界に戻ることを喜んでくれたのが恩師である。
PhDの時に、海外研修として研究室に2ヶ月滞在させてもらった。その時に新しい装置も紹介してくれ、それがきっかけでデンマーク工科大学でも同じ装置を買うことになり、パリに何度か足を運んだ。今はぶっ壊れてしまってるが。。。
私のPhDのディフェンスの時もわざわざデンマークまで見にきてくれた。
その後もデンマークに遊びに来てくれたり、一緒にドブロクニクに旅行に行ったり。
日本に一時帰国したときは、研究会に誘ってくれたり、奥様と娘と4人で一泊旅行をしたり。
先生との思い出は数え切れないほどある。
ものすごく可愛がってくれた。。。
デンマークに移住したとき、先生はすでに60歳頃で退官を間近に控えていたとはいえ、先生の残りの人生など考えたこともなかった。30歳も歳が離れているのに、先生の年齢はずっと度外視していた。
ものすごく昭和の先生なのに、あまりディシプリンに囚われず、やりたいことをやらせてくれたし、女だからといって下に見てくることもなかった。一人の研究者として私を尊重してくれていた先生だった。
寂しい限りである。