ドキュメンタリー映画「Tro(信仰)」 | いまのしゅんかん

ドキュメンタリー映画「Tro(信仰)」

ポスキ休暇が終了した。

今回は初めて地元のプロテスタント国教会で一連のポスキの礼拝に行ったが、とてもよかった。

特に木曜日の最後の晩餐はよかった。

恥ずかしながら、そのときに初めてイエスが逮捕されたのが過越祭のときで、だからこそポスキはこの時期なんだということを知った。復活には春がふさわしいから、なんて勝手に思ってた。。むしろ木曜日の礼拝はユダヤ教の伝統に従っていて、イエスが裁判にかけられて十字架刑にかけられる受難の日は、その翌日で、安息日の前だから金曜日なのだと。

改めてユダヤ教との密接な関係について知り、昨日は以前日本の神学校から送ってもらったテキストを読みながら、聖書も読んだ。まだまだ勉強不足の自分を認識したのだった。

 

今日は、友達と、デンマークのドキュメンタリー映画「Tro(信仰)」を観に行った。

 

To vidt forskellige billeder af religiøs tro skaber en kontrastfuldt og tankevækkende helhed i Jens Loftagers nye film. Den danske præst Karsten spiller musik for sine konfirmander for at få dem til at stole på deres egne kvaliteter og turde springe ud i livet. Samtidig møder vi tre japanske buddhister, der aldrig fik den mulighed, og som nu reflekterer over deres tabte ungdom som medlemmer af den religiøse gruppe Aum, der begik et terrorangreb i Tokyo i 1995. 'Faith' undersøger på tværs af livsstadier og kulturer, hvordan den religiøse tro både kan gøre mennesker livsduelige og i stand til at forstå os selv bedre, men også skubbe os ud i ekstreme valg, vi senere vil fortryde og have svært ved at forstå.

    

デンマークで堅信式の準備をする1415歳のティーネージャーたちの映像と、オウム真理教の信者だった、上祐史裕、広末晃敏、宗形真紀子の3人のインタビューがパラレルに入り、信仰とは何かを問うドキュメンタリー映画である。

 

3人とも異なるバッググラウンドをもつものの、複雑な家庭環境であったり、変わったスピリチュアル体験をもち、ひとと違う感覚をもつなどして、それぞれ居場所を求めた結果、オウム真理教に入信したようである。

 

わたしの娘は洗礼も受けていないので、堅信式のことについてまったく知らなかったのだが、映画をみて、いいなぁ、、と思った。

わたしも受洗に至るまで、牧師さんとマンツーマンで準備はしたものの、わたしはひとりの大人として洗礼を受ける身として、キリスト教の基本的なことを学ぶというよりは、わたしの今までの人生にフォーカスし、その中で信仰に至る経緯について話したり、日本人としてキリスト教についてどう思うかなど、わたしの考えについて主に話しあったので、映画の中で、「生きるとはどういうことか。」「死とはどういうことか。」「愛は何か。」「神はどういうひとか。」という基本的な問いについて考えさせられるなんて、いいなぁ、、、と思った。

たぶん彼らにとっては面倒くさいことだったかもしれないけど。

 

そして、そのデンマーク人の彼らをいいなぁと思ったのは、わたしも、ティーネージャーのときには、そのインタビューを受けた3人と同じように、自分のアイデンティティの獲得に苦しみ、生きることというのはどういうことかわからないまま、暗黒の時代を過ごしたからである。

もし、あのとき、映画のように牧師さんに「自分は何か考えることで苦しむのは普通だよ。」と言ってくれたら、どんなにきもちがラクになっただろう。

偏差値なんかでランク付けされるのではなく、わたしがわたしでいいと愛を受けることができたら、もっと楽しい青春時代を送ることができたんじゃないかと思った。

というか、日本の教育って、学力向上だけにフォーカスされすぎてて、繊細な思春期に、もっと人間としての成長についても慮るような内容にするべきなんじゃないかと思う。

まぁ教育だけでなく、日本では愛の概念自体がなく、親も愛はしつけだと思い込んで、正しいと信じて子供を厳しく育てることがよしとされるところもあったが。もしかすると今はもっと欧米化してきているかもしれないけど、わたしが子供のときは、親に愛情をかけてもらうどころか、がんがん厳しくしつけられたものである。

かくいうわたしも、キリスト教に出会うまで愛を誤解していたが。。わたしは、愛は責任を伴う、「好き」、だと思い込んでいたが、実際はまったく違う。

    

愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 

パウロの手紙からの一節だが、ずしーーーんと来る。

この年になって、愛について学んでいる。娘に対してや特定の誰か、というだけでなく、愛をもって生きるということに。

むしろ、わたしの彼は、今までいろいろ経験してきているけど、ネガティブなことを言わないし、いつもポジティブでなんでも楽しんでいて、ささやかな日常の中でも楽しみをみつけるひとで、愛をもっているひとだなーと尊敬している。

クリスチャンじゃないけど、誰よりも愛を実践できているひと。正義感が強くて、でも自分をよくみせようとするわけでもないし、そしてひとのことを尊重する。

 

わたしは、自分のことが好きじゃなかったから、少しでも成績を向上させることで自分の存在意義を見出そうとしたり、恋人ができれば相手の自分へのきもちを確認することで安心しようとしたりした。

ただそのままの自分でいいと思えなかったから、何かに依存するしかなかったし、自己顕示する必要があった。ひとと比較して妬み苦しんだ。とても、ひとを受容するような忍耐なんてもちあわせてなかった。

やっと愛を信じることができ、ただのわたしとして歩み出した。それがわたしの「信仰」である。

 

「受難」と「復活」