黙想会 -中間断食期間-
ファステランから4週間、ポスキまで3週間と、断食期間のちょうど中間ということで、今回の黙想会は断食がテーマだったが、かなり興味深かった。
断食というのは、食べ物に限らず、不必要なものを絶ち、必要なものにより注意を払うことであり、神の愛に対してよりアプリシエートすることが目的だという。
それを聞いて、耳が痛かった。。
わたしは、食べることをがまんせず、空腹感を少しでも感じたらすぐ食べてしまうし、お酒も飲んでしまう。
最近急激に体重が増えて、プールに行ったときに体重計に乗って人生最大値になっていることに衝撃を受けてしまったが、顔も少しむくんだような気がして、血液検査では糖尿病と肝機能を調べてもらったが、月曜日に来るであろう結果にドキドキしている。
それに、問題なのは食生活だけではない。
いろんなことをやりたくって、イベントがないとさみしく感じてしまうし、予定がつまってないと落ち着かない。常に刺激が欲しくて、あれもこれもと手を出したくなる。
そして一番の問題は、スマホの依存。
ちょっとした待ち時間や電車での移動中でも常にスマホをいじっていて、ぼーっと考えることもなくなってしまった。そして、そういうときにみるものって、大概不必要な情報ばかり。
だからこそ、無心になれる機会が欲しくて、黙想会に参加したくなるという、矛盾。
恐ろしいのは、そういう刺激に慣れてしまうと、もっと大きな刺激が欲しくなって、その欲求に歯止めがきかなくなるという。。
デンマークに移住したころは手取り12000krのPhDで、3歳の子供もいて、そこから家賃と保育料を払い、かなりギリギリで生活していて、インターネットもなかったし、携帯も月々50krの安い契約で、テレビもDRしかみられず、旅行どころかお出かけもままならない状態だった。それでも創作ものをやったり、近くを散策して馬を見にいくとか、鴨にパンをやりにいくとか、ささやかなことで楽しみを得ていたのに、今や外食も映画もたいしたイベントではなくなり、デンマークにいると外に無償に出たくなってくるという。。しかもできることなら、ヨーロッパ外に行きたいという。。
今となっては、あのときのようなお金に対する危機感をもたずにすんでるだけでありがたいはずなのに、すっかり満足感が麻痺してしまって、より大きな楽しみがないと満たされなくなっている。
黙想会でもらった紙に、一日断食のことが書いてあって興味をもった。
断食をすると、より意識がクリアになって、普段享受しているものに対してより敬意を払うようになるという。
確かに、享受し続けていると、それが当たり前になってしまって、享受していることにも意識しなくなるであろう。
例えば、足を骨折して歩けなくなったときに、普通に歩けることのありがたみがわかるように、食べることも食べられなくなって飢餓感を得たときに食べられることのありがたみを感じるのかもしれない。
来週あたりやってみようかな、と思っている。ついでに、一緒に一日オフライン、というのも試してみたい。
そして、今年の夏は、娘の運転免許の痛い出費で、どこにも旅行に行かない予定なのであるが、それはそれでこれを機にイベントのない夏というものを過ごしてみたい、というきもちにもなってきた。
しかも、その時期はバレーボールもないし、普段あるアクティビティもない。プールも確か閉まってしまうような気がする。相当暇になるはずで、そんな中どう過ごすのか模索するのも楽しいのではないかと思ったり。我慢できずにどこかに出かける可能性もあるけど。
いかにいろんなものに依存しているか。。この断食時期に考え直したい。