京都旅行 | いまのしゅんかん

京都旅行

 

娘の友達はデンマークに戻り、娘は実家に戻ってきた。

一緒にいた11日間、それはそれは充実した毎日だったそうだ。

ジブリ美術館に行くバスで乗り遅れそうになったが、これといったトラブルもなかったという。

京都でも意外に難しくはなく、伏見神社、嵐山、祇園に行き、さらに大阪に行って道頓堀や海遊館にも行ったとのこと。

伏見稲荷では、娘のひいじいさんが寄進した鳥居があるのだが、それはみつけられなかったとのこと。

 

わたしも娘がいない間、あわただしく過ごした。

最初はお茶のお稽古や友達と会ったりして過ごし、富士吉田に一泊しにいったあと、帰った翌日から2泊京都に行き、昨日帰ってきて、今朝空港まで娘の友達を送るために新宿のホテルに泊まった。

昨日の夜は友達と会ったのだが、そのあと娘にメッセージをしたら、わたしが飛行機の時間を11時を9時半と勘違いしていたことが発覚し、慌てて娘たちのホテルに成田エキスプレスのチケットをピックアップし、新宿駅に行き、時間を変更してチケットを再発行してもらった。その直後にシャッターが下り、ギリギリセーフで新しいチケットを入手できたのだった。

それでも5時に起きて6時半に娘たちをピックアップし、なんとか7時発の成田エキスプレスに乗ることができた。

そして9時ころ空港で友達とバイバイして、わたしたちは空港をあとにしたのだった。

これといったトラブルもなく無事に送り出すことができてほっとした。

 

わたしは、今回京都は今までさんざんみてきた寺院をみるのではなく、茶道がらみのところをメインでまわることにしていたのだった。あと、百人一首で河原院の名前をみて、光源氏のモデルにもなった源融が建てた六条院の跡地をみにいこうと、渉成園にも行ったが、東本願寺の分院と関係がまったくない上、場所さえも実は違うことが近年わかってきたとのこと。庭園は美しかったが。

意図していなかったが、ホテルの近くに漫画ミュージアムがあり、ちょうどわたしの好きな山岸涼子の展示会をやっていたのでついつい入ってしまった。原画はそれはそれは美しかったが(あの絵のうまさは、芸大出身ということも関係しているのか)、案の定漫画に読みふけるというトラップに嵌ってしまった。それにしても、90%以上の入場者は外国人であった。

そして一日金沢にいって、帰国する直前に大工仕事を手伝ったデンマーク人姉妹の妹をたずねることも急きょ予定に入れた。

レイルパスをもっているからと気軽に金沢に行ったのだけど、これがまたすっかり忘れていた昔話を思い出すことにもなったのだった。そして、ついでに初めて北陸新幹線に乗ってみようと、これまた思い出深い富山にも行ってみたのだった。時間がなかったのでほんのトンボ返りではあったが。

富士吉田もそうだけど、こういう回顧の旅もいいなぁ、と思った。また金沢の旅についても別途書いてみたい。

 

お茶がらみでは、楽美術館と裏千家茶道資料館に行ったのだが、いずれもよかった。

楽焼の魅力は、手びねりで成形することと、型もレシピもないのでそれぞれの特徴が出ること、であろう。5代目のひとは、初代楽長次郎に憧れてあまりツヤのでない釉を開発しつづけたそうだ。そういうのも自己責任で追及しなければならないという。。

デンマークでも楽焼のワークショップがあるし、クラフトショップでデンマーク人作家による楽焼の鉢をみたときは驚いたけれど、自由に作っていいのでそれもアリである。(しかし手びねりではなく、ろくろでまわしたっぽい感じはあったが。。)

手びねりだから、手にほわっと包める大きさなのもいい。でも、基本釜にひとつしか焼けないので高価でありなかなか手が出ない。

 

資料館でもちょうど茶道具の展示をやっていたのだが、よりわたしの心をつかんだのは先代の千玄室の著作である。

宮尾登美子の「松風の家」で14代淡淡斎までは知っていたが、15代家元については意外と知らず、経歴にとても興味があった。

なんでも、創立者でクリスチャンの新島襄が茶道を習っていた縁もあって、父親に続いて千玄室も同志社大学に進学したそうだが、そこで学んだのと、奥様が渡辺シスターの後輩ということもあって、洗礼を受けないながらも相当キリスト教に傾倒していたそうである。

わたしが買った本で千玄室著の「日本の心、伝えす」の中にこの一文がある。

「利休は、躙口を通して、茶室に入る武将たちに身分も肩書きもないただの人になるよう求めたのです。また躙口を進む時、人は自分の足元をみつめることになります。この瞬間、自らを省みる心が生じます。そうした心の転機も、武将たちに与えたかったのではないでしょうか。(中略)それを利休はどのようにして思いついたのか。一説によると、バテレンたちとの交流により「聖書」に収められている「マタイによる福音書」の次の一節がヒントになっているといわれます。

狭い門から入れ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入っていく者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そしてそれを見出す者が少ない。」

真偽のほどは明らかではないそうだが、茶道とキリスト教の意外な結びつきにいたく感動してしまったのだった。

わたしが茶道に真剣に取り組むようになった去年、またキリスト教にも傾倒し洗礼を受ける決意にも至った。一見別々のことであっても、実はふたつとも共通した哲学に基づいていて、両立するのになんら矛盾もないどころか、互いに関係していたことだったのかと気づいたのである。

確かに、躙口に入っていく敬虔なきもちは、神様に向き合うきもちに似ている。

 

京都には何度も訪れているけれど、今回はまた新しいことを発見できた旅行だった。

 

デンマークで茶事をおこなったときの茶室の躙口。9月にまたお伺いする予定なので、もっと自分を省みるきもちではいっていこうと思う。