一年間で気づいたこと | いまのしゅんかん

一年間で気づいたこと

デンマークでも大晦日に入ったところ。

離婚した去年もいろいろあった年だったけど、1月から夫の前妻の病気が発覚した今年もなかなかハードな一年だった。

結婚とか、娘の入学とか、博士論文とかイベント満載だったというのもそうだけど、なんというか、、、自分の弱さというものにつくづく向き合わなければならなかった年というか。

前妻の病気や、保育園からの息子に関する手紙などが契機となって、(結婚したにもかかわらず)一時期は愛情も冷めたのかと思えるほど夫に対する見方が変わったのだが、夫に責めたいきもちをもちながら同時に、わたしという人間は、一人の人をきちんと愛することができないのかもしれない、とも思うようになった。

わたしは、前の夫を含め、一人の人を3年以上愛したことがない。

恋愛感情がある程度おさまるのは仕方がないことだとは思うが、別に相手にドキドキすることはなくとも、相手を大事にしたいと思うきもち、相手をいとおしいと思うきもちでさえも長続きすることがない。

夫が、一人で充実できないために常に誰かを必要とし、だからこそ自分を充足させるための相手であって、その相手そのものをきちんと見えないことに嫌気がさしたとき、つくづく、人って誰でもいろいろと弱さをもっているものなんだな、前の夫を受け入れられなくなったのも、彼の欠点そのものではなく、それを受け入れられなかった自分こそ問題だったのかもしれない、と思うようになった。

大体、わたしだってさんざん嫌な部分があるのに、それでも前の夫はずっとわたしのことを好きでいてくれていたし、今の夫にも受け入れてもらっている。

誰もが欠点をもつのは当たり前のことなのだから、それを受容することも大事である。

っていうか、義母も夫と似たようなところがあり、人の話聞かないし、人を慮ることができないし、いつも自分のことでせいいっぱいですぐパニックになるし、はっきりいって夫よりもその度合いが大きいのだが、それでもいまだハンサムで頭よくて誠実な義父がぴったりと寄り添って義母に共感したり支えたりしているところ、、、さすがだなーと思う。

むしろ、自分の利益のためだけに相手を欲するのだとしたら、そういうハードな関係をすぐ放棄してしまうと思う。

苦しいことも含めて関係を維持することそのものに意味を見出してなければ。

そういう意味で、夫だって、さみしいからというネガティブな感情が原動力となって家族を必要としているのではない。

むしろ、都合が悪くなったらさっさと切り捨てたいと思ってしまうわたしの方こそ、自分のための「おいしいところどり」というスタンスなのかもしれない。

一緒にいたら楽しいし刺激を受けるし成長できるうちはいい。それができないのなら意味はない、と。

前の結婚で、確かに前の夫の過失もあっただろうけれど、それを許すこともまた大事なことだったのではないか、と思う。過失によって傷ついたことは言ってもいい。でも、それを引きずるようなことはしてはいけない。

そして、これがまた今の夫に同じようなことしてしまっている。自分の悲しいという感情ばかりにとらわれて、なかなか解放できなかったりする。

でも、誰もが間違いを犯したりするし、過失から回避することなどほぼ不可能で、それにいちいちとらわれずに、それに気づいて認めて繰り返さないようにすることが大事である。

教会で、「お互いに間違いを許すことも大事なこと」と話してくれた牧師さんの顔が思い浮かぶ。

ちょうど一年前の記事にも、実は、夫の問題についてすでに認識した文章があるのだが、今年は結婚によって、よりそれが逃げられない試練となり、しかもより自分自身を省みるようになったと思う。

一年間の考え方の変化に驚く。