深い関係がもたらすもの
市役所から手紙が来た。
去年、ソーシャルカウンセリングの人とのミーティングについてのレポートにサインをして欲しいとのことだった。
もう1年以上前のことなのに、、、なんとものんびりとしたお国柄である。
去年の4月、10日間ほど日本から友達が滞在しに来ており、せっかくだからと夕食後の散歩に出ることを提案したものの、娘は家から出たがらず、家の中で待つと言い張るので、しかたなく娘をおいて友達と散歩に出かけたところ、30分ほどで戻ると我が家の前で人だかりになっており、しかも警察まで来ている。
何か起きたのかと思ったら、娘は窓を開け、出窓のところで立っていたところ、それを目撃した人が警察に通報したらしい。
わたしががんぜない娘を家で一人にした結果、窓のところに立つなど危険なことにまでなったということを糾弾され、警察から市の方に連絡が行き、しばらくソーシャルカウンセリングの指導を受けることになったのだった。
そのときに、延々とこの国のシステムについて聞かされたのだが、特徴といえば、より子供をプロテクトするということであろう。
基本的には、子供に悪いことが起きないように、大人が管理しなければならないという考え方である。
たとえ子供が薄着を好もうが、寒いと大人が判断すれば無理やりにでも暖かい格好をさせるといったように。
そのほかにも、日本事情を話し、いかに日本で子供を得ながら働くことの困難についても語り、カウンセラーの方がこの国の事情について話したりした。
まぁ、ミーティングは、カウンセラーによる一方的な指導というよりは、今後問題が起きないためにどうするばいいのか話し合うためのものであった。
すなわち、日本人のわたしが一人でこの国で育児することによって伴う問題をどう解決したらよいのか、という話し合いである。
そのときに、助けを求められる人を確保する重要性について悟されたのだった。
でも、当時のわたしは、友達が少ないにもかかわらず、仕事があったせいか、それほど孤独感も感じていなかったし、困ってもいなかった。
というよりも、なかなか小さなことを誰かに頼むということができなかった。例えば、訳してもらったりとか、娘をあずかってもらうなど。でも、それができないことを、それほど気にしてもいなかった。
こんなつまらないことを頼むなんて、相手にとっては負担に感じてしまうのではないか、、、それだったら、できる限り自力でなんとかしよう、と、相手との摩擦が起きることを恐れるばかりに、自分の殻に閉じこもっていたのである。
けれども、彼と出会ったころ、まだお互いをよく知らず、雑談程度の話しかしていなかったが、我が家の前で話し込んだときに、
「でも、英語の能力に乏しすぎて、英語で論文を書いたり、プレゼンをすることが人の何倍も労力を必要とする。」
といったところ、
「君の英語はよく理解できるし、何の問題もないから大丈夫。」
といわれ、とても幸せなきもちになった。
彼が、わたしとの会話を楽しんでくれていることがわかったから。
そして認識した。
わたしも、こうして一緒にいることで愉しんでくれる人、わたしと交わりたいと思ってくれる人を欲していたのだ、と。
藤原正彦のエッセイで、アメリカに滞在しているときに、どんなにパーティに誘われたり、食事をして、大勢の人にちやほやされても孤独感はぬぐえなかったが、たった一人、ある女性と互いに好感をもっていることを感じたときに、はじめて本当に幸福感を得ることができたとあるが、まさにそうだなー、と。
信頼できる親戚や友人のいる日本とは違って、知人も少ない外国では、仕事の成果を得なければならないという大義名分のもと、いろんなことをあきらめつつ生きているものの、やはり確固たる信頼関係を誰かと築くことによって初めてその地に根がはれる感覚を得ることができるのだと思う。
彼を得るまでは、誰にも必要とされないどころか、言語もまともに操ることのできないわたしは、この国でのお荷物的存在なのではとさえ思っていたから。
彼の存在によって、はじめて、この国にいてもいいという感覚を得ることができたと思う。
この国は、税金が高く、政府からの保護があついだけに、逆に一人一人自分の人生に対して責任をもたなければならない。援助はされても、援助されっぱなしではなく、将来につながる援助でなければならない、という考え方である。
だからこそ、人との深いつながりを誰もが必要としているように思う。深い関係が、大きな助けとなりうるからである。
わたしは、恋愛をしたいというよりも、とても近しい友達を欲していたのだと思う。