縁 | いまのしゅんかん

縁

今朝、以前講義でお世話になった先生に、わたしの論文について質問させてもらった。

いろいろと参考になるご意見もいただいたのだが、何よりも驚いたのは、わたしの就職についてさまざまな可能性を示唆してくださったこと。

「今からさがせば、きっとこの大学に残れるわよ。」

 

実現するかどうかはともかく、指導教官ではないのに、ドクターを取得したあとのことを気にかけてくださったことが、とてもうれしかった。

授業を受けた学生の中では、わたしがもっとも理解度に劣っており、言語も問題を抱えていたにもかかわらず、授業のときから親切にいろいろと個別に教えてくださったり、本当にありがたいことだと思う。

 

***************

 

人気ブロガーである友達の日記で、ご主人との「縁」について書かれてあったのだが、本当、人生「縁」で展開していくものだよなぁ、と思う。

もともとのきっかけは、偶然のことが多い。

この国に来たのだって、日本の指導教官のところに訪問したときに、偶然、その先生の下で短期間研修中の今の大学の研究員が同席していて、いろいろ話して親しくなり、そのあと彼女の同僚が立ち上げたプロジェクトの研究員としてわたしを推薦してくれたのがきっかけだ。

彼と親しくなったのも、3回も街中で偶然出会ったことがきっかけ。

 

でも、当たり前かもしれないけど、「偶然」だけではすまされない、とも思う。

きっかけは、きっかけでしかない。

 

友達は、偶然にご主人と出会ったけれど、関係性を築いていけたのは、彼女という個性あってこそのことだと思う。

 

指導教官のところで、この国の研究員と出会ったことは偶然ではあったけれど、その前から、先生とは研究の中のある問題について議論を交わしており、そのときも彼女にわたしのもっているアイデアについて具体的に語ったため、彼女はわたしが本気で研究活動を再開させたいと願っていることを理解したようだ。もし、研究の話抜きで、ただの雑談で終わっていたら、プロジェクト参加を打診されることもなかったと思う。

彼とも、いくら知り合ったからとはいえ、会話を通じて共感しあうことがなければ、既婚でありながら、惹かれることもなかっただろう。

 

でも、わたしが言いたいのは、「この国にきたことや、彼と出会ったことがよかった」ということではない。

日本を出ることがなくたって、それはそれでひとつの人生だよなぁ、と思う。

 

つまり、わたしたちには、さまざまな「縁」がふってくるわけだが、それを「縁」と意識するかどうかはともかく、それによってどう人生彩っていくのかは、個人によるところが大きいのではないか、ということ。

それが利益になるかどうかではなく。

わたしの、素直で率直で痛々しい性格によって、ひどく人に嫌われることもあるし、日本の指導教官やその授業でお世話になった先生など、とても気に入って下さる人がいて、さまざまな機会を与えてくれることもある。

トータルでいえば、嫌いな人の方が多いと思う。

でも、それがわたしなのである。

 

**************

 

また、彼のお父さんが、不整脈で具合を悪くされた。

わたしは、彼に、

「いい加減、お父さんからもっと自立しなよ。例えば、自分がほとんど携わった仕事に関しては、最後まで責任もって、顧客に対してプレゼンしたり、レポートも書くとかさ。大学で授業受けるのもいいけど、これからは理論ではなくもっと実践を鍛えないといけないんじゃない?お父さんのところにしろ、別の企業にしろ、絶対必要とされるスキルだしさ。苦手だからといって逃げて、お父さんに頼ってちゃぁダメだよ。」

と、きつーく警告した。

翌日、そのことについてお父さんとディスカッションしたそうだ。お父さんも同意見で、早速レポートを書く仕事を引き受けたとか。

ようやく、重い腰を上げた、というところである。

 

どういうわけだか、彼とつきあってまだ9ヶ月というのに、ひきりなしに何か起こる。

ドラマのように。

おばあさんの死、相続問題。

お母さんの入院。

元奥さんが巻き込まれた刑事事件。

元奥さんの住居問題。

お父さんの病気。

 

それが苦しいとも思うのだけど、それによって考えさせられることも多いし、彼という人間、わたしという人間をみる機会にもなる。

 

火曜日に、また日本人の友達と再評価をしたのだが、そのときに彼女はまた嫌な感情をある人にもっていると。

それで、わたしは言った。

「それを否定することない。それも、Rちゃんの感情なんだよ。」