個人の認識の違い
「ねぇ、次の投稿論文名前どうする?あなたは、もうTさんじゃなくて、Mさんでしょう。正式な名前がMさんになったのなら、将来のことも考えて、今のうちにMとして論文投稿したほうがいいんじゃないのかな。」
「でも、この国でまだ名前変更の登録してないし、、、、変えたら、いろいろやることがあって大変そうで。そもそも、名前変更の証明するための戸籍謄本をまだ送ってもらってなくて、しかも送ってもらったら大使館で訳してもらわなければならないし。」
「証明なんて必要ないんじゃない?この国は、住民番号制で、その番号が個人を認識するための絶対的な情報であって、名前はその番号にリンクした情報のひとつでしかないから、それほど重要じゃないし。パスポートさえあれば、簡単に変えられると思うし、万が一変えたとしても、大学や銀行で名前変更する必要ないから。」
「マジで!?日本では、本当に名前変更するの大変なんだから!大体戸籍謄本ができるのだって、2週間かかったし。」
指導教官とのやりとり。
ちなみに、娘の戸籍謄本はまだできていない。
裁判所の決定に1ヶ月近くかかったからである。
わたしはてっきり、名前変更には、日本の正式文書が必要だと思いこんでおり、娘の戸籍謄本が出来次第、わたしのと一緒に送ってもらう予定で、そのあとどうするべきか考えるつもりだった。
「この国では、名前を変えなくても何も問題ないよ。」
と恋人が言っていたのは、そういうわけなのである。
つまり、個人認識番号が絶対情報であり、実際には名前ではなく、番号が大学やら銀行などの機関に登録される。だから、名前がどうであろうと、番号は不変だから、たいした問題ではない、と彼は意味したのである。
なんという違いだろうか。
日本では、名前こそが個人を認識するための唯一の情報であるがために、結婚や離婚に伴って名前が変わると、大変煩雑な処理を必要とされてしまう。
銀行口座の名義人の名前変更には、免許証か保険証が必要である。そして、免許証の名前変更には、保険証が必要である。
名前は、変わりうる絶対的な情報ではないにもかかわらず、個人を認識する唯一の手段であるから、大変なのである。
これこそ、日本の家族単位を基本とした社会システムに起因するのかもしれないが、日本はこの国よりもずっとずっと名前を重要視しているような気がする。
結婚に伴って名前が変更になることが、一種のイベントのようになっていたり。
というか、名前だけでなく、その人が独身か既婚であるかとか、子供をもっているか否か、職業はなんであるかなどなど、その人がもつ属性というものをものすごく意識するような気がする。
血液型を意識するのもそのひとつ。
人を血液型という属性に分類するのが好きなのである。
でも、この国では、属性など意識されることなど滅多になく、その人の人柄そのものが重視されるような気がする。
日本では名前が重要であるがために、ものすごく名前決定に時間をかけるが、この国はあっさりとしている。一般的な名前から適当な名前を選択するだけで、ひとつのデパートメントに同じ名前の人がいることはごく当たり前の現象である。
でも、名前とか職業とか関係なく、交流でもって人を判断するところがある。本当にその人自身をみているのである。
ちなみに、必要がなければ、仕事のことが話題になることもない。いまだに、何の仕事をしているのかわからない保護者もたくさんいる。普遍的な話ばかりである。
でも、そういったどの属性の人も参加できるような話題の会話の中で、相手の意見を聞くことによって、どういう感性をもっているのかどういう価値観をもっているのか判断することはできるものである。
わたしはやっぱり、属性って下らないと思ってしまう。
どんな属性であろうとも、その人はその人であることに変わりがないから。