関係というのは
わたしは今、長いレポートを書いているが、
彼もまた、弁護士のところに相談に行く前に、結婚生活の実態、具体的に何を望んでいるのかについて長いレポートを書いたそうである。
その方が、弁護士にとっても相談者の背景が把握しやすく、的確なアドバイスを与えることができる。時間ごとにコストがかかってしまう弁護士とのやりとりをいかに短縮するために、あらかじめできるかぎりの準備をしたのである。
彼にとってもっとも重要なことは、100%の養育権を得ること。
そのために、奥さんがいかに育児を怠っていたか、具体的なエピソードをまじえながらすべて書いたそうだ。
わたしもまた、なぜ夫に対する愛情を失っていったのか、細かくその過程について書いている。
なんせ5年間もセックスレスですから。
こっちでボーイフレンドを得たのは一結果であって、それが破綻のすべてではない。
でも、書きながらつくづく思った。
関係っていうのは、お互いが責任をもって築くものなんだってこと。
はっきりいって、書いていることっていうのは、何も特別なことでもない。どこにでもありがちな問題を書いているにすぎない。正直、「こんなこと、誰でも経験しそうなことですよね。」と弁護士に言われるんじゃないかと恐れているくらいだ。
だけど、彼や彼のお父さんとつきあって、わたし自身はなんら変わってないのに、とても好ましい関係を築いていて、わたしも自然と何かしたいというきもちになるにつけ、やっぱりお互いのきもちが大事なんだなと痛感している。
夫は、いつも自分中心。
「口論なら誰にも負けない。」と自負していることからも窺い知ることができるように、相手の状況を慮るよりも前に、いかに自分の主張が通るかに力を注ごうとする。自分の言い分を相手に納得させるために、いかに「正論」をひねりだすか。そういうことに努力するタイプだ。だから法律にもものすごく興味をもっている。
でも、「正しいこと」って、そんなに重要なことなのだろうか?
まずは、お互いのきもちを理解することが先ではないか?
お互いの認識を共有してから、「正論」にすりあわせていけばいいだけのこと。
確かに、夫はいつも「正しいこと」を言っていたかもしれない。
でも、毎回毎回わたしのきもちを理解してもらえないというきもちだけは残っていって、たとえ「正しいこと」が行使されていたとしても、夫へのきもちは冷めていったのだと思う。
もし、わたしのきもちを理解しようという努力を夫から見出すことができたなら、結果的にわたしの言い分が通らなかったとしても、こんなにも不信感を募らせることはなかったと思う。
現に、彼や彼のお父さんも、いつもわたしの意見に同調するわけではないし、時には反対することだってある。
だけど、彼らが徹底しているのは、まずは「人の話をちゃんと聞くこと。」。
聞いてもらっているという安心感があるから、わたしも相手を信用することができ、相手の意見を素直に聞くことができるのである。
そして、わたしたちがいつもしていることは、「相手に対して感謝すること。」
別に意識しているわけではない。
お互いに助け合っているうちに、自然と相手に感謝するきもちが生まれているだけのことである。
でも、夫とは、感謝するどころか、「やってあげている。」だった。
お互いが「こんなにも尽くしているのに。」という感覚だから、支えあうのも気分悪い。
相手に何かするのもしてもらうのも徒労だけが残ってしまうのである。
娘のことでお願いするのも、いつも苦痛だったなぁ。
あとで、「こんなにも面倒みているのに。」といわれるのが嫌で。
今や、彼のお父さんに「あなたが望むなら、保育園のお迎えはわたしがするから。」と言ってくださり、連日お願いしてしまっている。
あとでお礼を言うと、「You are welcome」だ。
素直に助けてくださることが、本当にうれしいし、わたしも何かできることをしたいと思う。
思えば、夫とは最初から不毛な関係だったかもしれない。
いつも聞いてくれないという不満が募り募って、「好きでやっていた」はずの彼のためのごはん作りも、苦痛になっていったなぁ。
そう思うと、いろいろエピソードを書いているけど、事実というのは、あくまでも二人のお互いへのきもちの結果にすぎない。
相手への思いやりを失ったら、もうそこでおしまいなのかもね。
自分の正しさだけを信じて、それで相手を屈服させようと考えているうちは、誰とも関係を結べない。