明石精一 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

何となく忙しいなか、資料収集も捗らず、時間だけが流れていくような今日この頃、
モヤモヤした感じばかりがどうもつきまとって、すっきりと趣味を楽しめないのは何とも心もとない限りですが、
そんななかであれば、モヤモヤついでに、これまで資料がみつけきれずにモヤモヤしたまま後回しにしていた方々を、
ざっくりとした形だけでも提示してしまうのも、ひとつ有りかなぁ…といった感じで、コチラの方とかを。


明石 精一 あかし せいいち
1886(明治19)年 月 日
熊本県 生

1903(明治36)年 関西美術會展に墨畫を出展
1904(明治37)年 関西美術會第二回競技会の鉛筆画部門で3等を受賞
1905(明治38)年 関西美術院が設立され、浅井忠の聖護院洋画研究所同人であったこともあり参加
1908(明治41)年 第6回太平洋畫會展に出展し、以降も太平洋畫會に出展を重ねる
1909(明治42)年 明石赤子の筆名で實業之日本社刊行の雑誌「少女の友」に口絵や挿絵など描きはじめ、のち「日本少年」「實業の日本」などにも漫画や挿絵を描くようになり、
1915(大正4)年頃からはもっぱら本名の精一名義での発表となる 
1928(昭和3)年 興文社より刊行された「小学生全集」でも多くの童画を手掛けるようになり、この頃より講談社より刊行されていた「幼年倶楽部」「婦人倶楽部」などでも挿絵や漫画を手掛けるようになる
1930(昭和5)年 「キンダーブック」「コドモノクニ」「子供之友」などで童画も手掛ける
1931(昭和6)年 実業之日本社より「幼年の友」の発行権を無条件で譲渡される
1933(昭和8)年 川原くにを、安泰、井元水明、中川盛久夫、田川水泡等と日本兒童漫畫家協會を設立

没年月日不詳  歳

昭和3年に設立された日本挿畫家協会にも参加されており、取りも直さず昭和5年にユウヒ社より刊行された日本挿畫家協會員有志編の「日本挿畫選集」にも作品が掲載されている方であり、
生年はともあれ月日までには未だ辿り着けず、上記略年譜にあるように昭和8年頃まではそれなりに経歴なども目にする事ができ(でも生年“月日”までは判明できていないんですけどね…)、
画像はキンダーブック関連で、「昭和7年1月キンダーブック編集会議出席の方々」とされる集合写真の中に並ばれていたところを無理やりトリミングしたモノ。
昭和10年代になっても講談社の絵本シリーズなどでも絵筆をとられていたりと、そこそこ活躍されていた感じではあり、
新関青花のところでも使用させていただいた2019年に川崎市民ミュージアムで刊行された展示会図録「のらくろであります!」に掲載されていた昭和14年12月の日本児童漫画家協会創立発会式とされる集合写真の中にも並ばれている姿があるのですが、
どちらにせよ、なかなか明確な画像にならないのは、何とも致しがたいところ。
昭和15年以降となると突然というくらい表舞台から名前が消えてしまい、資料がみつからない…。…といったわけで、もちろん没年も不詳のまま。
わずかに昭和19年に「鶴書房編輯部明石精一」という記述を目にすることができたのですが、はてさてこれは同一人物でよいのでしょうか…?
画家としてではなく編集者として裏方に転じられたがために画家として名前を目にすることができなくなったのかしらん?
さぁて、ここから先に何かしら見つけられて、このモヤモヤ感は払拭されることがあるのでしょうか…。