小磯良平 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

先に「キング」掲載の『日本挿畫壇に輝く人々』肖像写真の中からも進められる人が何人か残ってしまっていることに気づきました。…などと書いてしまいましたが、
どうもしっくりこないところもあって、すんなりとは進められそうにありません。…徐々に埋めていきます。
と、したところで、これまでしっくりこなかったために登場見合わせてしまっていた方を先にすすめます。


小磯 良平 こいそ りょうへい
1903(明治36)年7月25日
兵庫県神戸市 生

1922(大正11)年 兵庫県第二中学校を卒業して東京美術学校西洋画科に入学
中学校で竹中郁と出会い、以降終生親交を続けることとなり、美術学校の同窓に猪熊源一郎らがいる
1924(大正14)年 在学中に帝展初入選
また、実父の従兄弟にあたる小磯家の養子となる
1927(昭和2)年 東京美術学校を卒業
1928(昭和3)年 渡仏し、一足先に到着していた竹中郁とともにヨーロッパを遊学
1930(昭和5)年 帰国後も、神戸に居を構え帝展に出展を続け、翌年光風会員となる
1932(昭和7)年 東京朝日・大阪朝日新聞連載の下村千秋『暴風帯』の挿絵を担当
1936(昭和11)年 光風会を脱会して、新制作派協会を結成する
その後も新制作派展や個展を開催しながら都新聞連載の丹羽文雄『薔薇合戦』(昭和12)や東京朝日・大阪朝日新聞連載の林芙美子『波濤』(昭和13)など手掛ける 
1938(昭和13)年 藤田嗣治らとともに陸軍省嘱託の身分で従軍画家として中国に渡り、帰国後戦争画を製作
戦後も作品を発表しながら、多くの新聞小説の挿絵を描き、東京芸術大学講師として後進の育成に務め、退官後は赤坂迎賓館大広間の壁画を制作するなど活躍した

1988(昭和63)年12月16日没 85歳

学生時代から一番好きな洋画家で、図録なども何冊か所持していたのですが、改めて年譜などを目にしてみたところ、挿絵に関しては、都新聞連載の丹羽文雄『薔薇合戦』を最初に手掛けた挿絵としているような記載などもあり、
また、肖像写真も今回使用するには何となくしっくりとくるものを入手することがなかなかできていなかったのですが、
たまたま今回見つけた写真が、質こそ良くないものの経緯が面白かったので、取り敢えず資料として引用させていただくことにします。
いずれもっと状態の良いモノが入手できれば変更したいと思ってはいますが…。

で、その写真の出所ですが、
1938(昭和13)年9月14日の東京朝日新聞に岸田國士の連載小説『暖流』(挿絵:岩田専太郎)の終了前に「次の朝刊小説」として
石坂洋次郎『暁の合唱』の告知を掲載している。挿絵は「嘗て本紙に『暴風雨』の挿繪を擔當した新制作派協會の重鎮、小磯良平氏の快諾を得ました」として紹介していて、その告知に使用されていた写真です。

…が、『暖流』終了直前の9月17日に東京朝日新聞紙面には再び「次の朝刊小説」と社告が掲載されて、
「石坂洋次郎氏の新作『暁の合唱』が登場することは、先に社告いたしましたが、今回都合により、これを変更することに致しました故、何分の御了承を乞ひます」と急遽新連載変更を発表している。
代わりに朝日新聞に連載が開始されたのは坪田譲治の『家に子供あり』という作品で、挿絵は伊東廉が担当している。
石坂洋次郎は当時まだ秋田で教員をしたが、「三田文学」に掲載した『若い人』が評判となったものの、
右翼団体から圧力をうけて、教員を辞職することとなり、職業作家として立とうとの第一作目になる予定だった朝日新聞連載もそのあおりを食らって掲載見送りになってしまったらしい。
挿絵を担当する予定だった小磯良平は、その三か月後の12月から朝日新聞紙上に林芙美子の『波濤』の挿絵を担当して、この時の埋め合わせをしてもらっているが、
石坂洋次郎が朝日新聞に小説掲載をするのは戦後昭和22年になってからになり、その作品が『青い山脈』(挿絵:佐藤敬)である。
『暁の合唱』は、「主婦之友」に昭和14年から昭和16年にかけてやはり小磯良平の挿絵で連載され、その後映画化もされている。
…と、いった話しは、小磯良平だけの資料ではなかなかお目にかかれません。

神戸には小磯良平の名を冠した神戸市立小磯記念美術館もあるのだが、挿絵に関してはどうなのだろう?