寺内萬治郎 | 襟裳屋Ameba館

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訳あってこちらにもブログらしきもの作らせていただきました。

前出、“「名作」に因る新作挿繪作品展”の出展画家で、まだ取り上げていない方を続けます。


寺内 萬治郎 てらうち まんじろう
1890(明治23)年11月25日
大阪市南区難波新地 生

中学3年のとき松原三五郎の天彩画塾に入り水彩画を学ぶ
1909(明治42)年 上京して白馬会葵橋洋画研究所に入り、黒田清輝の指導を受ける
1911(明治44)年 東京美術学校西洋画科入学
1916(大正5)年 東京美術学校卒業
1918年(大正7)年 文展に初入選
1922(大正11)年 曾宮一念らと金塔社結成
1923(大正12)年 「金の星」5巻8号よりの口絵、挿絵、表紙絵などに参加
1925(大正14)年 第6回帝展で特選など官展での活躍を続けながら「少年倶樂部」「幼年倶楽部」「雄弁」など講談社系列の雑誌を中心に様々な雑誌にも挿絵などを描いた
1934(昭和9)年 埼玉県浦和に転居
1937(昭和12)年 東京朝日・大阪朝日新聞連載の片岡鐡兵『炎の詩』の挿絵担当        
1942年(昭和17)年 陸軍省派遣画家としてフィリピン、セレベス等に派遣される
1943(昭和18)年 東京美術学校講師となる
戦後は裸婦画に専念しながら、東京教育大学教育学部講師や埼玉県美術家協会初代会長就任、門下生と武蔵野会(のち与野会)を結成するなど後進の育成にも努めた
 

1964(昭和39)年12月14日没 74歳

ネットなどでいろいろとみると、洋画家として、“裸婦図で知られ「裸婦の寺内」「裸婦を描く聖者」「デッサンの神様」などと称されることも多い”とされるなか、“「コドモノクニ」「幼年倶楽部」の挿絵画家としても親しまれた”との人物紹介があるところを見ると嬉しく感じます。
しかし、上記片岡鐡兵の新聞連載小説の挿絵も担当していたりと、童画だけでないことも入れておきたかったので加えておきました。

関東大震災後に東京から浦和へ移り住んだ画家たちによる「浦和アトリエ村」というのがあったというのもこれまで知らなかったので、一応入れてみました。
「金の船(のちに金の星)」については岡本帰一のところで触れていたのですが、
発行社の金の星社では、創業100周年記念としてホームページで「金の船・金の星デジタルライブラリー」を公開されていることを記載しそこなっていました。
「データは国立国会図書館ウェブサイトより転載したもの」としながらも、やはりこうして記録を公開されるのは素晴らしいです。
父親の出身地であるらしい広島県呉市には、蘭島閣美術館という施設があり、その別館では作品常設展示もされているようです。

まーーーったくの余談ですが、世代的なこともあるのですが、個人的には寺内といわれると貫太郎と続いてしまう世代だということもあって、どこにも接点など見られませんが、名前だけでは以前から微妙に気になっていた画家さんです。