1995年に大学を卒業して、失意のうちに鹿児島に帰ってきたオレはもちろん実家に身を寄せた。一人暮らしをする気力もお金も無かったからね。
でも、それで何もしなかったらただのニート(当時はそんな言葉は無かったけど)のタダ飯喰らいになっちゃうんで、スーパーでアルバイトを始めたんだ。自分に必要な金は自分で稼がなきゃいけないから。移動用に安い原チャリを買ってね。
大学生の頃は、コンビニでアルバイトしていたから、スーパーも似たようなものだろうと思っていたんだけど全然違ったね。
次の日の特売品をお客さんが手に取りやすいように特売品コーナーに並べたりしないといけないし、コンビニと違って一度に入荷してくる品物の量が断然多かったので体力も使った。レジ打ちなんかもバーコード通すんじゃなくて手打ちだったから頭も使った。でもそのスーパーいい人が多くてね、随分良くしてもらった。
そうしてとりあえずの禄を稼いでいたオレだったんだけど、ひょんなことから大きく運命の歯車が動き始める。
うちの近所に某派遣会社兼医療事務学校の講師をしている方がいて、オレの母親に「医療事務の勉強勧めてみたら?」って提案してきたんだ。分かる人には何処の会社か大体想像がつくと思うけど触れずにおいてね(笑)。
それを聞いたオレは、「まぁ勉強するだけしてみようか」ぐらいのノリで、医療事務の勉強始めてみたんだ。ここが運命の分かれ道だったね!ここで「やらない」って言ってたらオレは絶対に別の方向に進んでた筈なんだ!
オレが選択したのは週1回毎週土曜日に3ヶ月位受講するコースだった。後から分かったことだけど、ここで学んだことは初歩の初歩、基礎の基礎で実戦に役立つことはあまり無かった。強いて言うならば『医療事務』がどういうものなのかということを学んだだけだったね。受講生の中に中学生の時の同級生の女の子がいたんだけど、なんかお互い気まずくて声かけなかったな。
そんなある日、講義の後に講師の先生から事務所に呼び出されてね、鹿児島支店の業務マネージャーに引き合わされたんだ。用件は「夜間診療所の深夜勤務のアルバイトをやってくれないか?」というものだった。どうしてオレにその話が回ってきたのか分からないけど、受講生の中に引き受けそうなのがオレくらいしかいなかったんだろうね。少しでもお金が欲しかったオレはその仕事受けちゃったんだよ。この辺りで医療事務の道を歩んでいくことが決定的になっちゃったかも知れない。運命の歯車ってね、ちょっとした事でグルグル加速度をつけて回っていくんだよ、ハムスターの滑車みたいに。
こうして、オレは週に何回かだけど夜間診療所の深夜勤務のアルバイトをすることになったんだ。『はぐれ医療事務員』の第一歩だね。
この夜間診療所、仮にA夜間診療所としておくけど、オレがアルバイトしてた深夜帯は23時から翌朝の7時までの受付・患者登録・電話対応・カルテ入力・会計処理を一人でやらなきゃいけなかったんだ。あとはドクターが内科一人と小児科一人、看護師が二人っていう編成だった。
ここで学んだことは意外と大きかったと思う。患者対応・電話対応・保険証確認・医事算定・会計っていう医療事務の基本を実戦形式で学ぶことができた。まぁ、その会社が素人のオレを無理やり実戦に放り込んだと言えなくも無いんだけどね!
A夜間診療所での仕事は割と面白かったよ。夜中だから色んな患者さんが来るし、色んな電話が掛かってくるんだ。
大体は「お腹痛い」とか「風邪ひいた」とかなんだけど、ある夜、真夜中に橋のたもとにしゃがみこんでた女の子を救急車が連れてきたことがあってね。この子がすごく綺麗でとてもびっくりしたことがある。「なんでこんな綺麗な子が真夜中にフラフラしてるの?」って思ってね。この子保険証持ってなくて預り金で処理したんだけど、ホントに謎の美女だった。
夜中に来る人たちだから変わった患者さんも多くてね、対応が大変で色々と勉強になったよ。
「具合が悪いから看護師に電話代わってくれ」って電話もしょっちゅうだった。本当に具合の悪い人だったらいけないから看護師さんに代わるんだけど、大体は代わった瞬間にパンツの色とか聞くらしいんだ。夜中ってね、そういうヒマな変態が一定数いるんだよ。若くて面白い看護師さんがいてね、「私何も履いてないの、じゃあね!」って切ったりしてたな。そういう対応したら意外と同じヤツから二度とかかってこないことが多かった。
ある夜は患者さんから、「あんた○○町のスーパーに兄弟いない?」って聞かれたことあってね、「いえ、いませんけど」って答えたら、「さっきそのスーパーにあんたにそっくりな人がいたんだけどな」って言われて、「ああ、それ僕です」ってやりとりもあったね。

夕方からのスーパーのアルバイト終わって、そのまま原チャリ飛ばしてA夜間診療所のアルバイトに入ったりもしていたからね。そういう事もあるんだ。

そして、深夜勤務明けたら朝から夕方まで爆睡するの、それでまた夕方からスーパーのアルバイト。「ドラキュラかよ」って思ったね。「何処の苦学生だよ?」とも思ったよ。

鹿児島に帰ってきてからはこういう生活だったんだけど、ある日急転直下で大きくオレの生活が一変する出来事が起きるんだ。それはまた次回。今回はこのくらいにしておこう。それではまた!

この話はオレの恥になるし、かなり苦い記憶なんだけど、おそらく読者で現実にオレに会ったことがある人はいないだろうから書いちゃおう。
オレが大阪のボロアパートで一人暮らしを始めてから1ヶ月も経たない時だったかなぁ、1本の電話が掛かってきたんだ。
どうやって電話番号調べたのか知らないけど、今と違って個人情報保護法なんか無いからね、調べる方法なんかいくらでもあったんだろうね。
どういう誘い文句だったかまではもう覚えていないけど、多分「学生生活を有意義にしないか?」的な内容の電話だったと思う。それに誘われて阪急梅田駅に行ったんだよ。よせばいいのに。
梅田駅に行ってみたら、大学生向けの英会話やパソコンやワープロを教えてる学校のお姉さんだったんだよ。それでその学校まで連れて行かれて勧誘されたんだ。かなり強引だった様な記憶がある。それで、契約書を持ち出してきて、契約するまで帰してくれなさそうな雰囲気だったんだ。お姉さんは消えてて、おじさんに代わってるしね。
オレも田舎から出てきたばかりで口下手だったし、気も弱かったからね、そのまま契約しちゃったんだ。
そんなに安くない金額だった気がするよ。そんなこんなで、オレの学生生活は借金から始まってしまったんだ。
何処とは言わないけど、今でもネットで調べたらその会社の悪評出てくるよ。
その学校での勉強は大して役には立たなかったけど、『簡単に人を信用するな』っていう勉強にはなったよ。この借金を返すのはかなり大変だった。
バカだと思うでしょ?オレもバカだと思う。だけどそれは今だから言える事であって、18歳で田舎から出てきたばかりの純朴な少年だったオレには分からなかった事なんだ。
そんな事もあったけど、友達には恵まれていたので、大学生活自体は楽しかった。
前回書いた悪友2人を中心に合コンやったりもしたし、オレのボロアパートで『48時間耐久桃太郎電鉄』やったりしたな。みんなで香川県の小豆島にキャンプに行ったのはほんとにいい思い出だよ。女の子と縁が無かったのは残念だったけどね(笑)。
ゼミの先生は助教授だったんだけど、凄く面白い先生でね。卒論も好きなテーマを選んで書けばOKっていう感じだった。
オレが選んだテーマは『モータースポーツにおけるスポンサーシップのあり方』。F1が大好きだったからね。書くの忘れてたけど、オレ一応経済学部の学生だったから、F1に経済学の要素を散りばめてみたんだ。面白く書けたよ。
4回生になったときはもちろん就職活動したけど、バブル経済崩壊の余波を受けて上手くいかなくてね。結局は大阪で仕事が見つからなくて、失意のうちに鹿児島に帰ることになってしまった。今考えると、もう少し上手に就活すれば何とかなったかも知れないけど、それはあくまでも結果論だからね。
オレの悪友2人はどうなったかというと、2人揃って留年しやがったよ!楽しいヤツらだったけど、アイツらは講義をサボり過ぎたんだ!
そして、卒業の年の1995年1月17日に阪神・淡路大震災に遭遇してしまうんだ。あのときは本当に生きた心地がしなかった。さすがに人生観が変わったよ。1日中余震はあるし、電話が不通で友達や家族と連絡取れなかったし。ボロアパートが潰れなかったのが不幸中の幸いだったよ。
鹿児島に帰る前にバイト先の女の子と二人で京都に遊びに行ったのは最後のいい思い出だよ。宇治の平等院鳳凰堂とか行ったんだけど、2月だったから寒くてね。その寒さだけはよく覚えてる。オレの名誉のためにも言っておくけど、ショートカットの似合う凄く可愛い子だったよ。思い出補正で美化されている訳じゃない。でもその子とはそれっきりだったなぁ。本当にもったいない事をした。住所だけでも交換しておけば良かったよ。彼女、幸せになってくれてるといいけどなぁ。
卒業してからは大学の時の友達とはそれっきりで、今誰がどうしているか全く分からないんだ。今と違って携帯電話なんか無かったからね。色んなツールで簡単に連絡が取れる最近の子を見ていると本当にうらやましいと思う。

そして、鹿児島に帰って、とうとうオレは医療事務の世界に足を踏み入れてしまうんだけど、今回はこのくらいにしておこう。それではまた!



杉様こと、杉良太郎さん。

今回の震災でも大規模な炊き出しをなさったそうで、本当に頭が下がります。
あの方は非常にボランティアに熱心だそうで、刑務所の慰問を繰り返し繰り返し、何十年にもわたって行っているんだそうです。
こう書くと脊髄反射で「犯罪者なんかに」云々と、反論される方もいらっしゃるでしょうが、ボランティアを日本語で「無料奉仕」とするならば、杉さんみたいな大スターが、それをずっと続けていらっしゃる事に意義があるんじゃないかと思います。
事実、法務省がその姿勢に感謝をし、「法務省特別矯正監」なる肩書を贈呈し、本人もそれを恭しく拝命したそうです。
本当に保護司の資格も有しているそうで、慰問だけじゃなく頼ってくる行き場の無い方々を、後々までケアなさっているそうです。
日本とベトナムとの親善にも長年携わってらっしゃって、ベトナムの数百人の孤児を養子にして養っておられるそうです。
さて、その杉さんですが、東日本大震災の時にも莫大な私財を投げ打ち、現地に向かい、奥様で演歌歌手の伍代夏子さんと共にかなり大規模な炊き出しを行いました。
この杉さんに、バカなんだか頭に虫が涌いてんだか知りませんが、こんな質問をしたマスコミがいたそうです。
「一部では偽善とか売名行為だとか言われているのですが…」 
杉さん、平然とした顔で、
「どなたが仰っているのかは分かりませんが、その方の仰る通りです。偽善で売名ですよ。偽善のために今まで数十億を自腹で使ってきたんです。私のことをそういうふうにおっしゃる方々もぜひ自腹で数十億出して名前を売ったらいいですよ。売名で偽善でも、それで喜んで下さる方がいるんですから、私はこれからも売名行為を続けていきますよ」
シビれっちまいました。
杉さんご自身はいわゆるセレブではなく堅実な日常を送っていらっしゃるそうです。