午後三時、雨上がりの空気は少し湿っていた。
ガラス越しに光が滲むカフェの中で、彼女はもう座っていた。
白いブラウスの袖をまくり、スマホを机に伏せたまま、カップの縁をゆっくり指でなぞっている。
その仕草だけで、空気の温度が少し変わる気がした。
「来てくれたんですね」
そう言って微笑んだ。
言葉よりも、その“間”のほうが印象に残った。
向かい合う席のテーブルは小さく、
指先が触れそうで、触れない距離。
ほんの数センチの空白に、世界が詰まっていた。
「ここ、落ち着きますね」
「うん。外の音が遠く感じる。」
それだけの会話なのに、息が浅くなる。
窓の外では雨粒が屋根を打つ音。
店内のスピーカーからは、古いピアノの旋律。
静けさが、かえって音を鮮明にしていく。
彼女の指がカップを持ち上げるたび、
金の細いリングが光を弾く。
その光が、僕の視線を奪う。
「あなた、仕事のときと少し違いますね」
「そう?」
「ええ。今日は、柔らかい顔してる。」
そう言われて笑ったふりをした。
でも、笑えていなかった。
沈黙がひとつ。
その沈黙が、心地いいのか怖いのか、自分でも分からなかった。
「……このまま、どこか行きたいですね」
彼女の声は静かだった。
曖昧な言葉なのに、意味ははっきりしていた。
僕は答えず、視線だけで返した。
彼女はカップを置き、バッグからハンカチを取り出した。
その手首の白さが、雨上がりの光を受けて淡く輝く。
外に出ると、街は少しだけ夏の匂いがしていた。
傘を差すほどではない雨が、地面に淡い影を作る。
「また、連絡しますね。」
そう言って彼女は歩き出した。
ほんの一歩の距離。
その一歩が、どうしても踏み出せなかった。
ポケットの中で、スマホが微かに震えた。
画面には、妻からのメッセージ。
『今日、少し早く帰れる?』
僕は空を見上げた。
雲の切れ間から光が差し込む。
その光が、まるで“まだ間に合う”と言っているようで、
なぜか、少しだけ苦しかった。