真理の研究 -7ページ目

人さまざま

「大祭司は律法学者と共にあざけって言った。『お前は他人を救ったが,自分を救うことができない』と」(マルコ伝15-31)

 

 

自分を救おうとして他人を救わない,これが普通の人間。

 

他人を救えるように装って,自分だけを救おうとする,これが悪人。

 

他人を救って自分を忘れる,これが神の人。

 

金融リテラシーの時代

 

「見知らぬ者よ,覚えておくがよい。数学は科学の基本であり,安全の母である」(ブランダイス)

 

 

<経済的断絶の時代>

 

 私は四十代の人間です。

 

私の祖父や親の世代,日本は右肩上がりの経済成長でした。

 

そして,経済成長にともない所得も増え,一生懸命に働いていれば年々歳々豊かになっていきました。

 

しかし,バブル崩壊後の日本は違います。

 

経済は停滞の一途,所得は上がらず,正社員にさえなれない時代です。

 

日本人の所得水準がいかに低くなっているかは,主要先進国の所得水準と比べてみれば一目瞭然です。

 

 

かつての豊かな日本人は,急速な勢いで貧困化しつつあるのです。

 

 経済成長を享受した親の世代と,急速に貧困化しつつある私たちの世代。

 

この大きな断絶。

 

この断絶は,金融商品の選択にも影響します。

 

私たちの親の世代は,“預金と保険”が主流でした。

 

所得が継続的に増加する時代は,それでもよかったのです。

 

しかし今や,預金と保険だけでは,経済的に破綻する時代に突入しています。

 

「老後のために2000万円必要だ」と言われていますが,所得が増加しない昨今,親の世代と同じ発想では到底貯められません。

 

今こそ,資産運用の知識が求められているのです。

 

 もちろん,預金は大事です。

 

すぐ取り出せる現金(キャッシュ)がなければ,安心して生活できません。

 

また,保険も大事です。

 

病気で働けなくなった場合の入院保険,伴侶や子供がいれば生命保険も必要でしょう。

 

しかし,銀行の定期預金や保険は,資産の拡大には不向きです。

 

例えば,あなたが今1000万円を持っていると仮定しましょう。

 

0.1%の定期預金に預ければ,1年後は+1万円ですから,1001万円になっています。

 

一見,増えたように思えますが,インフレ率が3%だった場合,資産は逆に目減りしているのです(インフレとは,お金の価値が下がる現象です)。

 

では,この1000万を株式に投資し,5%上昇したと仮定しましょう。

 

1年後に+50万円ですから,資産は1050万円になります。

 

その差,49万円です。

 

これが10年・20年と累積されれば,資産額は大きく変わっていきます。

 

 つまり,何が言いたいかと申しますと,銀行に1000万円を貯金して20年後に1000万円を引き出しても,それは同じ価値の1000万円ではなく,物を買える価値は800万とか700万に減少してしまっているのです。

 

資産の増加を「成功」と仮定すれば,預金を選んだ時点で失敗です。

 

なぜなら,確実に減少する道を選択してしまったからです。

 

資産を増やすためには,投資しかありません。

 

 

 

<投資の種類>

 

 では,投資にはどんな種類があるのでしょうか?

 

色々あります。

 

株式や債券があります。

 

不動産やコモディティ(商品先物取引)があります。

 

FX(短期的な為替取引)や暗号通貨(ビットコインやイーサリアム)があります。

 

また,(ゴールド)で資産保全する道もあります。

 

先物取引・FXや暗号通貨は投機的な要素が強く,不動産は一定のキャッシュフローや(ローンを組むための)信用がなければ無理です。

 

では,他の金融商品を比べてみましょう。

 

約200年間の平均リターンは,株が7%,債券が3.5%,金が0.6%です。

 

つまり,歴史に鑑みれば,株式投資が最も効率的に資産を増やす手段ということになります。

 

 しかし,バブル崩壊やリーマンショックを経験された方は,こうおっしゃられるかもしれません。

 

「株なんて危険なものに,大事な金を投資できるか!」と。

 

勘違いしてはいけません。

 

投機と投資は違います。

 

投機家(speculater)は,楽して大金を得ようとする人,短期的な売買で一攫千金を狙う者です。

 

一方で投資家(investor)は,中長期的な視点で企業価値を判断し,適正な価格で売買する者です。

 

数日・数週間で大儲けを狙うのか,数年・数十年を見据えて安定的な利回りを期待するか。

 

私が推奨している株取引とは,投資であって投機ではありません。

 

 では,どうやって投資すればいいのでしょうか?

 

投資にも,二種類の手法があります。

 

第一に,ファンダメンタルズ分析です。

 

財務状況や業績をもとに企業価値を判断し,株式を売買する方法です。

 

第二に,テクニカル分析です。

 

過去の値動きやトレンドのパターンで売買のタイミングを判断する方法です。

 

ファンダメンタルズであれば決算書や経済指標を分析しなければなりませんし,テクニカルであれば株価変動を常に注視しなければなりません。

 

いずれにしましても,専門的知識とある程度の時間が必要になります。

 

普通の仕事人,一般的なサラリーマンには,ハードルの高い資産運用といえるでしょう。

 

 

 

<米国株のインデックス投資>

 

①  インデックス投資とは何か?

 

 では,どうすればいいのでしょうか?

 

それは,米国株のインデックス投資です。

 

運用のプロでさえ,高いリターンを上げ続ける(●●●)ことはできません。

 

ましてや,専門的知識のない私たちが,個別株の売買(アクティブ投資)で高いリターンを上げることは難しいと思われます。

 

インデックス投資とは,いわば分散型投資です。

 

株式市場全体に連動した投資信託やETF(上場した投資信託)を購入することです。

 

つまり,米国株のインデックス投資とは,「米国株式市場全体の値動きに反映する投資信託やETFに積み立て投資する」ことです。

 

簡単に申し上げれば,アメリカ合衆国株式会社を保有することです。

 

もっと具体的にいえば,全米株式インデックスファンドやS&P500インデックスファンドに連動した投資信託を買い続ければ,老後の2000万円問題は簡単に解決できます。

 

 

「すべての上場企業の株式を非常に安いコストで保有すること」(ジョン・C・ボーグル「マネーと常識」)

 

 

 これは,多くの伝説的投資家が推奨している投資手法です。

 

ウォーレン・バフェットという方がいます。

 

20代の頃2万ドル(1ドル100円として200万ぐらい)で株式投資を始め,現在700億ドル(7兆円)の資産を保有する金融界のレジェンドです。

 

50年間,20%以上のリターンをあげ続けた人です。

 

彼は,妻にこう遺言しています。

 

「現金の10%は短期国債に,90%をS&P500(のインデックスファンド)に投資せよ」と。

 

つまり,バフェットはこう言いたいのです。

 

余程の天才でない限り,米国株式市場の平均リターン(S&P500)に勝ち続けることはできない。

 

ならば,市場そのものを味方につけよ。

 

素人の資産運用の最適解は,全米株式市場に連動した投資信託である,と。

 

 

 

②    なぜ米国なのか?

 

 ここで読者は思うかもしれません。

 

「なぜ米国なのか?日本ではダメなのか?」と。

 

そうです,ダメなのです。

 

なぜなら,米国はこれからも経済発展が予想される国ですが,日本は残念ながら衰退する可能性が大きいからです。

 

米国の強みは,「圧倒的な軍事力」と「基軸通貨ドルの存在」だと言われております。

 

しかし,それだけではありません。

 

米国市場には成長する要因が揃っているのです。

 

 第一に,人口です。

 

日本の人口は現在1.3億人弱ですが,2050年には0.9億人と1億人を割ります。

 

一方で,米国は現在3億人ほどですが,2050年には3.8億人,つまり4憶人に近づくのです。

 

人口が増加するということは,それだけ消費するということであり,経済成長が見込まれるということです。

 

ドラッカーが述べたように,人口構造こそ,未来予測の最大の材料なのです。

 

 第二に,投資に見合った法整備です。

 

日本では,上場してしまえば基本的に退場しません。

 

一方で米国では,上場しても成長性がなければ,すぐにOTC(店頭)市場に移されてしまいます。

 

つまり,投資家に貢献できない企業は,存在価値がないものとして排除されてしまうのです。

 

米国企業が必至に利益を出し,株価を上げようとする所以です。

 

また,自由で民主的な法整備が整っていなければ(例えば中国やロシアのように),たとえ経済成長しても株価に反映されません。

 

経済成長と株価にギャップが生まれてしまうのです。

 

 第三に,国内における教育です。

 

米国では,起業家精神を育成する風土があると同時に,資産運用の教育が充実しています。

 

つまり,経済成長を牽引する起業家が育ち易く,また,そういう人々に投資する環境が整っているのです。

 

資本主義という“発展の論理”に貫かれた民主主義国。

 

故に,GAFAM(グーグル・アップル・フェイスブック・アマゾン・マイクロソフト)のような社会変革の企業が誕生し得るのです。

 

「大企業に入れば安泰,お金は銀行に,株式投資は悪」という風潮の日本社会とは大違いなのです。

 

 以上,人口・法制度・起業環境が揃っている国は,世界広しといえども米国しかありません。

 

米国の経済力がいかに強いかは,結果が証明しています。

 

次のチャートを見てください。

 

日本の平均株価は,バブル崩壊以後,30年すぎても戻っていません。

 

 

上下の振動を繰り返すのみです。

 

一方で,米国の株価指数は,短期的には上下しながらも,長期的には右肩上がりです。

 

 

リーマンショックも見事に数年で克服しました。

 

経済エンジンの爆発力が違うのです。

 

つまり,米国の株式市場に連動したインデックスファンドに投資し長期保有すれば(●●●●●●●),リターンは確実なのです。

 

 

 

③    長期保有によるリスク分散

 

 長期保有(20年~30年)することにより,短期的な株価の上下が相殺されますし,何よりも為替リスクを回避することができます(大国同士の為替は変動してもすぐ戻ります。なぜなら,極端な為替変動は両国にとって不利益だからです)。

 

具体的に計算してみましょう。

 

S&P500の平均リターンは6%でしたが,少し控えめに5%と仮定してみましょう。

 

月々1万円を積み立てれば,20年後には411万,30年後には832万になります。

 

月々3万円を積み立てれば,20年後には1230万,30年後には2500万になります。

 

仮にあなたが40歳だとして,65歳で2000万円を用意したければ,月々3万3000円積み立てればいいのです。

 

株価のチャートに一日中はりつく必要もありません,毎日経済動向をチェックする必要もありません。

 

「Buy and Hold」

 

ただ淡々と積み立てていけば,きわめて高い確率で老後資金が蓄えられるのです。

 

これが,複利の凄さです。

 

 

「地道に幅広い銘柄に分散投資されたインデックスファンドを辛抱強く持ち続ける投資家こそが,勝利を手にする」(バートン・マーキル「ウォール街のランダム・ウォーカー」)

 

 

 全米型のインデックス投資とは,すべての上場銘柄に分散投資することです。

 

つまり,個別銘柄に集中投資するより,かなりリスク分散されます。

 

また,投資信託によって月々積み立てることにより,時間的にもリスク分散されます。

 

さらに,長期保有により売却益(キャピタルゲイン)が発生しませんので,売買手数料や税金の節約にもなります。

 

買って待つ。

 

ひたすら待つ。

 

これが,最も賢明な金融戦略なのです。

 

 

 

<具体的方策>

 

①    税金を減らす

 

 さて,一部の富裕層は別にして,老後資産を準備するには,「米国株のインデックスファンドを長期的に積み立てること」が最適解だと申し上げました。

 

これを実行する際,二つの注意点があります。

 

それは,極力コストを減らすことです。

 

せっかく積み上げた資産も,コストが高ければ大きく目減りしてしまいます。

 

主なコストは二つあります。税金と手数料です。

 

 まず,税金を減らす必要があります。

 

そのためには,金融庁や厚生労働省の制度を利用するのがよいでしょう。

 

一つ目が,「つみたてNISA」です。

 

これは,金融庁の非課税積み立て制度です。

 

投資信託やETFの積み立て投資について,年間40万円を上限に最長20年間,運用益が非課税になる制度です。

 

運用益は通常20%ですから,これは大きなメリットです。

 

1年で40万が上限ですから,月々最大3万3000円,非課税で積み立てることができます。

 

 二つ目が,私的年金制度である「iDeCo」です。

 

これは,年金不足を補うための制度で,NISAと同じように運用益が非課税である上に,掛金が全額所得税控除,受け取る場合もある程度控除されます。

 

ただし,自営業か会社員か主婦か,仕事の形態によって拠出限度額が決められています(企業年金のない会社員や主婦は,月々2万3000円が上限です)。

 

また,積立額の受け取りが60歳以降であることは注意すべきでしょう。

 

 いずれにせよ,運用益が非課税というのは大きなメリットです。

 

もし少しでも余剰資金があるのなら,活用しない理由が見つかりません。

 

 

 

②    手数料を減らす

 

 手数料はどう減らせばよいのでしょうか?

 

それは,適切な金融機関を選ぶことです。

 

間違っても,対面式の銀行や証券会社を選んではいけません。

 

手数料が高すぎます(店舗の維持や従業員の人件費が原因です)。

 

手数料を安くしたければ,ネット証券しかありません。

 

特に,SBI証券や楽天証券,マネックス証券がいいと思います。

 

SBI証券は口座数が国内トップであり,手数料は最安値です。

 

楽天証券も最安値,かつ,色々とポイントがつくようです。

 

マネックス証券も安いですし,米国株の取扱銘柄が多く,リアルタイムチャートや投資情報の提供も充実しています。

 

投資初心者はSBI証券か楽天証券がよいのではないでしょうか(ちなみに私は,SBI証券でインデックス投資をし,マネックス証券で個別銘柄に投資,日本で取り扱われない銘柄はサクソバンク証券で売買しています)。

 

 開設する口座には,色々な種類がありますが,初心者の方は「特定口座(源泉徴収あり)」を選ぶといいでしょう。

 

自動的に税金が引かれ,確定申告しなくても済むからです。

 

仮に,SBI証券で口座開設したとしましょう。

 

米国株式市場の投資信託を希望するならば,「SBI・V・全米株式インデックスファンド」や「eMAXIS Slim米国株式(S&P500)」を選択すれば,安い信託報酬で積み立てができます。

 

 毎月いくら積み立てるかは,収入や年齢によりますので,できる範囲で構わないと思います。

 

ただし,一度始めたならば,株価が下落しても決して積み立てを止めてはなりません。

 

インデックス投資は,長期に積み立てるからこそ威力を発揮します。

 

途中で止めてしまえば,旨味を逃すことになります。

 

むしろ,株価が落ちる局面こそ,チャンスなのです。

 

なぜか?

 

仮に,毎月2万円積み立てるとしましょう。

 

株価の上昇局面であれば10口しか購入できなかった株式が,暴落局面では20口,あるいは30口購入できるのです。

 

再び上昇したとき大きな利潤を生むことは,火を見るよりも明らかです。

 

 

「ドルコスト平均法は信念をもって(●●●●●●)投資し続けること。暴落した時こそ買いのチャンスだからだ」(バートン・マーキル)

 

 

 

<コア・サテライト戦略>

 

①    次なる段階へ

 

 全米株式インデックスファンドの積み立て投資は,将来の安定を確保する「コア戦略」です。

 

もし資金的に余裕ができるのなら,リターンをあげるために,もう少しリスクを取っていいかもしれません。

 

例えば,成長が期待できそうな業種のETFに投資するとか(ハイテクやヘルスケアのセクターETFなど)。

 

あるいは,特定のテーマに沿ったものに投資するとか(自動運転やバイオの投資信託など)。

 

 また,意欲のある方は,個別株に挑戦してみてもいいでしょう。

 

そのためには,決算書を読めるようにすること。

 

損益計算書(PL)や貸借対照表(BS)・キャッシュフロー計算書(CF)の数字を通して,企業の健全性を判断する力を養うこと。

 

また,FRBの金融政策や国内総生産(GDP)など,経済指数を必ずチェックすること。

 

あらゆる手段を尽くして,経済動向や企業情報を集める必要があります。

 

 いずれにせよ,コアであるインデックス投資で最低限の資産を確保できたなら,次は業種やテーマごとのセクター投資へ,さらに個別株のアクティブ投資へ。

 

場合によっては,銀行借入を利用して不動産投資へ。

 

また,ハイリスク・ハイリターンですが,暗号通貨という方法もあります。

 

リターンを得たければリスクをとる必要があります。

 

大事なことは,リスクを0にすることではありません(それが最大のリスクです)。

 

リスクをちゃんと理解して,収入や資産・年齢に応じた投資戦略を実行することです。

 

 

「よい計画の最大の敵は,完璧な計画という夢である」(クラウゼヴィッツ「戦争論」)

 

 

 

②    利潤≠悪

 

 ある人は言うかもしれません。

 

「真理を探究するお前が,経済的利益を推奨するとは,なんと不埒(ふらち)な奴だ」と。

 

こういった発想をする方の根底には,「利潤=悪」という固定観念があるのだと思います。

 

しかし,利潤は悪ではありません。

 

もしこの世界に経済的利潤がないならば,現代の高等教育はなかったはずです。

 

なぜなら,企業が教育に必要な費用を生み出し,教育後に必要な職場を生み出したからです。

 

利潤を追求する,これはつまり,リスクを取ることと同義です。

 

リスクを取る人間がいるから,社会は発展します。

 

社会が経済的に前進するから,その利潤によって高度なサービスが可能になるのです。

 

また,利潤によって生活に余裕が生まれ,知的水準が向上したからこそ,社会の不平等を是正しようとする風潮も生まれたのです。

 

 また,個人におきましても,適切な金融リテラシーによる資産運用は大事なことです。

 

経済的自立なきところに,精神的自立はあり得ません。

 

真理は独立です,自由です。

 

依存する人間,現実社会での独立を軽視する人間に,真理は与えられるべくもないのです。

 

 

「戦略計画はリスクをなくすためのものではない。最小にするためのものでさえない。そのような試みは,最後には,不合理かつ際限ないリスクと破滅を招くだけである。経済活動とは,現在の資源を未来に,すなわち不確実な期待に賭けることである。経済活動の本質とはリスクを冒すことである。・・・しかしそのためには,冒そうとしているリスクを理解しなければならない。いくつかのリスクから最も合理的なものを選ばなければならない。勘や経験に頼ることはできない」(ドラッカー「マネジメント」)

 

 

(注) 今回の記事は,将来に不安を抱える氷河期世代や金融知識のない若者のために書きました。ですので,一部の富裕層や老後資金の潤沢な方を対象に投稿しておりません(資産家には違った運用方法があるからです)。

また,投資は自己責任で行うものです。ご自身の金銭はご自身の責任と判断によって運用してください。

 

 

三浦瑠麗氏「21世紀の戦争と平和」の誤謬

 

「君の世界を救うために,君はこの男に死んでくれと頼んだ。もし,彼が君に会ったなら,この男は“なぜ”と尋ねるだろう」(W・H・オーデン「無名戦士のための墓碑銘」)

 

 

 

一.「21世紀の戦争と平和」の概要

 

 三浦瑠麗氏の論旨はこうである。

 

戦争は,必ずしも専制国家が起こすものではない。

 

かえって,民主国家においてこそ,容易に,きわめて安易に起こり得る。

 

“国防を一部の人間に委任する政治体制”において,国民は安全保障を他人事(ひとごと)だと思い,一時(いっとき)の感情によって戦争を是認し易い。

 

というのも,たとえ戦争になっても,自分とその家族の血が流れないからだ。

 

顔も名前もわからない他人の血が流れるだけ。

 

故に,自衛を特定少数の人間に押しつける国民は,政治の第一優先課題ともいうべき安全保障について,思考停止の状態に陥り易いのである。

 

 つまり,戦争が起こる原因は,“血を流す者”と“血を流させる者”との分断である。

 

一部の人間に国防を委任するのではなく,誰もが国防に関わること。

 

三浦氏のいう「血のコスト」を均等化することこそ,戦争を止めるための現実的な方策である。

 

そして,“血のコストを均等化する”とは,全国民が国防に参与すること,すなわち「徴兵制」である。

 

簡単に言えば,これが三浦瑠麗氏の主張である。

 

 すべての人が国を守り平和を維持する手段について熟考すべきこと,すべての人が国防に参与すること,安全保障を自らの主体的問題として引き受けることなど,大いに賛同せざるをえない。

 

しかし,彼女の見解には,三つの大きな間違いがある。

 

 

 

二.三浦瑠麗氏の誤謬

 

① 一般民衆に対する見解

 

 第一の誤謬は,一般国民に対する見解である。

 

彼女は言う,「誰もが血のコストを負担するようになれば,安全保障について真剣に考えるようになる」と。

 

本当にそうだろうか?

 

確かに,彼女や彼女の接してきた人々,彼女の身近な人間はそうかもしれない。

 

しかし,国民の大多数は,彼女が考えるほど理性的ではない(●●●●●●●)

 

国民の大多数は感情で動く。

 

残念ながら,国民のほとんどは,非理性的で情で動く人々なのだ。

 

“血のコスト”という心理的圧迫に直面して,冷静に思考できる人間は国民の上位数%のみであろう(この“上位”というのは,学歴や知能指数など知的レベルのことである)。

 

三浦氏が,今までどういった人々と出会い,どういったバックグランド(年収・社会的地位や成育環境など)を持つ人々と接してきたか,私は知らない。

 

だが,文面から察するに,経済的にも教養的にも平均以下の人々の思考方法や一般的傾向をわかっているのだろうか,少々疑問である。

 

優秀なエリートである三浦氏は,“国民なるもの”に対して幻想を抱いているのではないだろうか。

 

 彼女はこう反論するかもしれない。

 

「徴兵制にすれば戦争が減ることは,データが示している。データこそ客観的な指標ではないか」と。

 

しかし,そのデータとやらが問題なのだ。

 

欧米各国やイスラエルは,キリスト教やユダヤ教の国々である。

 

今でこそ宗教的熱情は鎮火ぎみだが,そもそも伝統的に一神教的考えが根付いている国々である。

 

唯一神の前での責任,これが政治的権利の本質である(自由は,努力すべき義務(●●)であって,要求すべき権利(●●)ではない)。

 

そういった国々と,仏教や儒教という微弱な倫理観に培われた経験しかなく,高貴な義務や自由の観念がない日本人を,同列に比べることはできない。

 

 故に,“徴兵制を採用すれば政治的関心が増す”というのは,楽観的な幻想である。

 

徴兵制にしたところで,多分何も変わらない。

 

平均レベル以上の学力の子は,点数が下がれば悲嘆する。

 

しかし,学力的に相当劣る子は,成績が下がっても何も感じない。

 

そもそも興味がないし,どうでもいいのだ(知的な劣等感は,それ自体が,ある程度の知性を有している証左である)。

 

そして,残念ながら,国民の知的レベルにおける人口比率は,生物学における個体数ピラミッドと同じく,低い者ほど多いのである。

 

それと同様に,愛国心や高い知性を有する者(三浦氏のように)は,きわめて少数である。

 

愛国心もない理性的に考えることもできない人間集団に血のコストを負担させても,“政治的・倫理的な思考停止”という病は治らない。

 

むしろ,一層過激化する可能性さえある。

 

 

 

② カント哲学に関する見解

 

 誤謬の第二は,カント哲学に対する理解である。

 

彼女は言う,「国内社会における負担の分かち合いという真の正義の実現と,世界の民の共通利益への収斂(しゅうれん)こそが,人類の共存と平和をもたらすというカントの思想の()」と。

 

確かに,カントの政治論「永遠平和のために」では,そのようなことが書かれている。

 

しかし,それがカント思想の核ではない。

 

三浦瑠麗氏に比べれば学歴においても実績においても劣る私であるが,カント哲学に関しては真剣に学んできたつもりである。

 

初期の著作(一連の科学的論考,「視霊者の夢」)から三大批判書(「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」)や形而上学の草稿(「自然の形而上学」「人倫の形而上学」),そして晩年の宗教論・人間論(「単なる理性の限界内の宗教」「人間学」)など,カントの著作を20年以上に渡って吟味し続けてきた。

 

そういった人間の立場から言わせてもらえば,カント思想の核は,外面的な倫理的・政治的平和ではない。

 

 

 

カント哲学の本質は,“神の国実現”のための“キリスト教倫理の復権”である。

 

カントは,敬虔主義の家庭に育ち,「知性の傲慢を挫き信仰に余地を与えるため(純粋理性批判序文)」著作活動を開始した。

 

また,時の政権に抗して,福音を弁護しようとした者である。

 

カント哲学の本質を政治や外交という表層的問題に限るとは,誤謬を通り越して傲慢でさえある。

 

 残念ながら,彼女は聖書を知らない。

 

知識として知っているかもしれないが,霊的に理解していない。

 

故に,カントを誤解するのである。

 

哲学者の思想の本質は,その人間観によく表われる。

 

カントは,他のどの思想家よりも人間を信じた。

 

ただし,この場合の人間とは,“現実ありのままの人間”ではなく,“理念としての人間”である。

 

カントのいう人間とは,人類全体ではなく,少数のエリートでもなく,個人そのものでもない。

 

各々の具体的な人の内に宿る「本来的人間の理念(パウロのいう“新しいアダムとしてのキリスト”)」である。

 

 故に,カントが平和の前提とした福音を抜きに,彼の政治論だけを取り出して云々(うんぬん)するのは間違っている。

 

というか,本質がずれている。

 

カント的立場に立てば,真の(●●)平和は制度をこねくり回すことで実現しない。

 

恒久的平和は,第一に心の内部(精神)において,第二に倫理的方面において,最後に政治的方面において実現すべきものである。

 

三浦瑠麗氏の主張が,「一時的な平和を実現する」方策であっても,「永遠平和を実現する」手段でない所以である。

 

 

 

③ 戦争の根本的問題

 

 第三の誤謬は,“罪の問題”を(ないがし)ろにしていることである。

 

彼女は言う,平和を実現するには,「相互利益によるグローバリゼーションが最後の希望である」と。

 

この場合のグローバリゼーションとは,マルクスが用いた“資本主義経済の暴力的拡大”ではなく,“異文化・異質な人間を受容すること”である。

 

確かに,他者を寛容に受容することは,平和実現のために必要である。

 

なぜなら,排他的な態度や誰かをスケープゴートにすること(ナチスにおけるユダヤ人,共産主義におけるブルジョアジー)が,戦争を引き起こすのだから。

 

しかし,私は思う。

 

「ならば,どうすれば異質な他者に対して寛容になれるのか?」と。

 

広く世界を見聞すればいいのか?

 

それとも,感情移入か?

 

あるいは,「人権尊重」という美名の(もと),自他の違いに無頓着になることか?

 

寛容は,そんな浅はかな手段で身につくものではない。

 

世界を知り尽くしても,寛容になるとは限らない。

 

ますます偏狭になる可能性もある。

 

日本人の大好きな感情移入とやらは,自分を他者の立場に置くことではなく,他者を自分の立場に置くことである。

 

無頓着的人権擁護は,寛容ではない。

 

お上品な交わりの拒否である。

 

戦争は,相互利益を構築すれば避けられるものではない。

 

経済的に相互依存しても,幾多の戦争は起こったではないか!?

 

 人間の心の内には,罪(the sin)という化け物が棲んでいる。

 

その化け物ゆえに,人間は利己的で,傲慢で,偏狭で,自分の欲望充足(性欲・食欲・金銭欲・名誉欲など)のためであれば,他者を非人格的に扱っても意に介しないのだ。

 

 「罪」という言葉が何か宗教っぽく胡散(うさん)臭いと感じるのであれば,心理学的な用語である「サディズム(攻撃性)」とでも呼ぼうか。

 

平和を実現するために必要なことは,人間固有のサディズムを克服することである。

 

サディズムの原因は,人間の恐怖である。

 

何かを恐れるが故に,攻撃的になって自己防衛しようとするのだ。

 

ならば,その恐怖はどこから来るのか?

 

それは,ヘーゲルのいう“不幸な意識”である(「精神現象学」)。

 

私という一つの人格が,“主人と奴隷”に分裂してしまっているのだ。

 

主人が表に出れば支配的となり,奴隷が表に出れば他人に隷属する。

 

世間一般にSとかMとか言われているものは,実はその本性を同じくしている。

 

SとMになる根本原因は,内面の分離,良心の矛盾,自我と非我の分裂なのである。

 

では,どうすればこの分裂を克服できるのか?

 

どうすれば,分裂した自我と非我は,再び一つの人格として合一し,本来の人間性を取り戻すのか?

 

それは,神の子(キリスト)の犠牲である,十字架の(あがな)いである。

 

彼が,彼のみが,罪を取り除き,人間を根本的に変えることができる。

 

 いずれにせよ,戦争をなくすためには,各人の人格的覚醒が必要である。

 

単なる自我(エゴ)は,国家に自己を投影し,自己肥大のために国家を利用し,最終的には自衛と称して侵略戦争を是認するようになる。

 

一方で,人格(セルフ)は,その敵を愛し,憎しみと復讐の悪循環から脱却することができる。

 

人格は,神の秩序を求める。

 

また,悪の根源に克たんとする“真の尚武(しょうぶ)の精神”を発揮せしめる。

 

罪の問題を解決せずして,永遠平和は絶対に来たらない。

 

言い方を変えれば,イエスの精神,福音書なしに,平和を論じても意味がない。

 

 

 

④ 三つの誤謬の根源

 

 私は今まで,三浦氏の三つの誤謬を指摘してきた。

 

民衆に対する幻想,カント哲学の誤解,罪の問題の忘却。

 

では,なぜこういった誤謬を,鋭敏な頭脳と知識と弱者擁護の倫理観をあわせ持つ三浦氏が犯してしまったのだろうか?

 

私は,彼女の「理性主義」が,すべての過ちの原因であると考えている。

 

 理性主義とは,「人間には健全な理性が宿っていて,この理性を発揮すればすべての問題が解決できる」という立場だ。

 

頭がいい人が陥る(わな)である。

 

頭で世界を支配しようとすることである。

 

理性主義の特徴は,人間心理に対するその楽観的態度にある。

 

人間の邪悪さ,「井戸の底のような悪の深淵(ニーチェ)」に対して,目を(そむ)ける傾向がある。

 

つまり,悪を矮小化(わいしょうか)してしまうのだ。

 

 「感情的になることは悪,理性的であることは善だ」と,普通の人は考える。

 

しかし,理性主義が多くの間違いを犯してきたことを忘れてはならない。

 

ルソーの理性主義が,フランス革命という混乱とロペスピエールの圧制を生んだ。

 

ヘーゲルの理性主義が,マルクスの共産主義思想を生み,ロシア革命という暴力とレーニンの専制を生んだ。

 

必ずしも,理性的・常識的なことが,平和を産む原因ではない。

 

歴史を振り返れば,ある意味で「狂」の人が,平和を実現してきた。

 

イエスは当時の人々にとって狂人だった(マルコ伝3-21)。

 

ソクラテスはアテナイ人にとって狂人だった。

 

ガンディーもそう,シュヴァイツァーもそうである。

 

平和を実現する人は,力よりも愛をとる「狂」の人なのである。

 

 三つの政治的態度がある。

 

第一に,進歩主義。

 

進歩主義は,害悪是正のために革命を是認する。

 

フランス革命は,この立場によって引き起こされた。

 

第二に,保守主義。

 

伝統を絶対化する立場である。

 

イギリスの立憲政治は,この立場によって貫かれている。

 

進歩主義は“未来に対する楽観的態度”であり,保守主義は“過去に対する楽観的態度”である。

 

前者は反人格的であり,後者は非人格的である。

 

ここで,第三の立場がある。

 

人格主義だ。

 

進歩主義も保守主義も,散り散りになった時間意識に支配されており,人格的実現を知らない疎外された意識という意味で“同じ穴のムジナ”である。

 

人格主義は,人格をすべての土台と考える。

 

人格とは,過去・現在・未来を統合した実存的時間に生きる立場である。

 

真の伝統主義(過去から善き精神を継承する)であると共に,真の革命主義(未来の人々に責任を持つ)でもある。

 

いや,人格主義が革命的なのではなく,人格こそ革命そのものというべきだろう。

 

 三浦氏は言う,「利害が強く認識されないイデオロギッシュな平和運動は熱しやすく冷めやすい」と。

 

が,私は言う。

 

「神の国の理念なき平和運動は,たとえ利害が認識されたとしても,強力かつ持続する力にはなり得ない」と。

 

 

 

三.恒久平和のために

 

「神の王国,つまりラマラジャ(パンチャーヤット・ラージ)がこの国に優勢にならない限り,私は安心して死ねません。そうなって初めて,インドは独立したといえます」(ガンディー)

 

 

①  平和運動の精神

 

 三浦氏の著書に対して,若干の論評を加えてきた。

 

単なる否定は,社会人としてあってはならない行為である。

 

三浦氏のような信念のある者の主義主張を批判する場合,自分自身の見解と代案も提示するのが筋というもの。

 

では,私の見解を示そう。

 

 そもそも,平和運動の源流とは,どこにあるのだろうか?

 

それは,イエスの生涯とその教えである。

 

十字架の死に至るまで愛を貫いたイエス・キリストの生き方と,山上の垂訓(神の国の倫理)に代表される彼の教えが,平和という概念の原点である。

 

このイエスの精神が,文豪トルストイを感化し,ヒンドゥー教徒のガンディーを感化し,キング牧師を黒人差別撤廃運動の闘士に変えた。

 

全体主義と対決したハンナ・アーレントも,ナチスの暴力に立ち向かったボンヘッファーも,(しいた)げられた人々のために一生を捧げたシュヴァイツァーも同じである。

 

 理性主義は,往々にして,目的のために手段を正当化する。

 

未来のユートピアのために,現在の暴力を認容する傾向がある。

 

目的>手段,これが全体主義の立場だった。

 

ルソー然り,マルクス然り,ロペスピエール然り,ヘーゲル然りである。

 

一方,暴力に反対する立場,戦争そのものと戦う平和主義者は,高貴な手段を重視する。

 

目的が平和なら,手段も平和(愛)を貫く。

 

これがイエスの立場であり,ガンディー・キング牧師・シュヴァイツァーの立場だった。

 

人は言う,「ガンディーはインド独立の英雄である」と。

 

それは違う。

 

彼は,世界史における最大の革命家である。

 

戦争を量産する近代国家に挑戦した唯一の男であり,キリストの精神を政治に適用した初めての人物だからである。

 

 

 

②  戦争の三つの次元

 

 ここで読者諸氏は指摘するかもしれない。

 

ガンディーが対決した大英帝国は,キリスト教国家だった。

 

キング牧師が対決した人種差別のアメリカ合衆国も,キリスト教国家だった。

 

ボンヘッファーが対決したナチス・ドイツでさえ,当時虚無主義(ニヒリズム)が支配していたとはいえ,そもそもがキリスト教国家である。

 

彼らはみな,イエスの教えがある程度浸透した国家と戦ったからこそ,非暴力・愛の力で平和を実現することができたのではないか!?

 

我ら日本人がガンディーのやり方を真似たところで,ガンディーと同じように平和を実現できるだろうか?

 

すなわち,無神論国家の中国共産党に対し,ガンディー流の非暴力主義は,かえって中国の侵略欲を刺激するだけではないのか?

 

 以上の疑問に答える前に,戦争には三つの次元があることを提唱したい(三浦瑠麗氏は平和の五つの次元を提唱している)。

 

根源的次元(下部構造)に位置するのは,サディズムの根,罪の問題,内心の分離である「(プネウマ)の次元」である。

 

その上位に位置する第二次レベルが,倫理的な行為に関する問題,教育によって解消できる「(プシュケー)の次元」である。

 

そして,上部構造である第三次元が,戦争の問題(経済戦争も含む),勢力均衡(バランス・オブ・パワー)によって一時的な平和を実現する「(サルクス)の次元」である。

 

真の平和は,根源的な罪の問題を解決しなければ得られない。

 

これは宗教の領域である。

 

一方で,精神的平和を実現するためには,肉体的生存が保障されていなければならない。

 

精神的感化には時間がかかる,その間に肉体的生命が失われてしまえば,精神的覚醒を遂げる機会を逸することになる。

 

故に,精神的覚醒を実現する時間確保のため,肉の次元における平和を維持せねばならない。

 

愛国的思想家フィヒテも指摘したように,マキャベリやモーゲンソー流の勢力均衡は真の平和ではなく,堕ちた世界の平和である。

 

しかし,堕ちた世界の平和であるにせよ,真の平和を実現する時間的猶予のために必要不可欠である。

 

 本当の平和を実現するためには,イエスの精神を広める必要がある。

 

これは,霊の次元の問題である。

 

そのためには,肉的平和を確保せねばならない。

 

現代のナチス,侵略国家・中国の野望を抑止するために,軍備増強と同盟強化により,勢力均衡をはかる必要がある。

 

また,できうる限り,現状変更を避けねばならない。

 

なぜなら,日本は第二次世界大戦で負けた国である。

 

現実世界のルールは,勝者の論理によって設計されている。

 

日本が核兵器を持ったり徴兵制を採用した場合,戦勝国を一斉に敵に回す可能性がある。

 

有力な同盟国を失ってしまう孤立は,それこそ第二次大戦の二の舞である。

 

政治制度の変更は最低限に控え,被爆国としての立場を利用しつつ,同盟国との合意の下,貪欲国家・中国に対抗すべく軍事力を強化する必要がある。

 

「平和の精神を広めつつ,自衛のため軍備増強する。要はこれ,ダブルスタンダードではないか!?最も卑怯な手段ではないか?それこそ,イエスの精神に反するのではないいか?」

 

そう問われるかもしれない。

 

しかし残念ながら,今の日本にはそれしか手がない。

 

そもそも,ガンディーやキング牧師の非暴力主義が成立した背景には,宗教的覚醒があったことを忘れてはならない。

 

ナーナク,ヴィヴェーカーナンダの宗教改革があったればこそ,ガンディーの政治運動が成立し得た。

 

ジョナサン・エドワード,ジョージ・ホイットフィールドの宗教的覚醒運動があったればこそ,キング牧師の活動が成立し得た。

 

精神的革命なくして,道徳的革命はあり得ない。

 

非暴力・愛の軍隊の形成には,国民の精神的覚醒が必須なのである。

 

 

 

③  第三の道

 

 リアリズムは,愛なき力の道である。

 

リベラルは,力なき愛の道である。

 

前者は単なる平和の持ち越しであり,後者は非現実的感傷主義である。

 

日本は,第三の道を行かねばならぬ。

 

力ある愛の道,愛が力である道である。

 

この場合の愛とは,子どもの出産でも,結婚という社会的関係の成就でも,ましてや,性的欲求の満足でもない。

 

人格の実現,神の内に愛する者の面影(おもかげ)を見ることである。

 

量的な制限の下にある生物学的個人の道ではなく,質的な無限の下にある精神的人格の道である。

 

前者は,外部から強制されて団結し,無個性で均質的な集団(●●)をつくる。

 

一方で後者は,内的・有機的に調和し,各人の独自性が生かされる共同体(●●●)をつくる。

 

人格とは,神と人の絆であり,人と人とが自由と愛によって協働することである。

 

“人格の実現”という精神的覚醒を経て初めて,日本及び日本人は平和の使徒たりうる。

 

 

「イエスの内へと透入する者に対しては,一切は道を譲るに相違ない。そして何ものも―書物も,またこの世界も―彼に対して困難を与えることはできない。なぜなら,精神的憧憬の目標であるキリストの精神が彼の内に住することによって,彼はイエスに変身しているからである」(ニコラウス・クザーヌス)

 

 

 

四.最後に

 

 以上,三浦瑠麗氏の著書をきっかけに,戦争と平和について考察してみた。

 

今まで彼女の見解の誤謬を指摘してきた訳だが,三点ほど明らかにしておくべきことがある。

 

 第一に,常に「自由」を弁護しようとする彼女の政治姿勢には共感していること。

 

第二に,自身の凄惨な体験を背景に,「安全」という問題に鋭敏な感覚を持ち合わせ,“むき出しの暴力から人間を守らん”とする真摯な姿勢には敬意を表していること。

 

第三に,自分の国は自分で守るという自立的国家観には賛同していること。

 

 昔,ハンナ・アーレントという政治学者がいた。

 

全体主義という暴力に対し思想戦を挑み,自由と共生の政治思想を追い求めた人物である。

 

 

三浦瑠麗氏は,アーレントのような形而上学的思弁をしない。

 

が,暴力と向き合い,自由と安全を保障する道を求め,あくまでも言論によって問題を提示しようとする態度は通底している。

 

現代日本のアーレントとして,日本人の政治意識向上のため,これからも戦われることを望む。

 

「自らを防衛しない人民は,生ける(しかばね)にすぎない」(ハンナ・アーレント)