真理の研究 -6ページ目

YouTubeチャンネルを開設しました

本日、YouTubeチャンネルを開設しました。

 

チャンネル名は、「無宗教のための聖書入門」です。

 

聖書を読んだことがない方、読んでも意味がわからない方、無宗教だけど聖書に興味がある方向けのチャンネルです。

 

基本的には、週1回の頻度で投稿します。

 

よろしくどうぞ。

 

 

 

ペテロの告白

 

 

 

 福音書の中には,「わたしは何ものであるか?」と問うイエスに対し,一番弟子のペテロが「あなたは救世主(キリスト)です」と答える場面があります。

 

四福音書すべてに記載されている記事ですので,実際に起こった出来事なのでしょう。

 

しかし,同じ出来事の記録でも,福音書記者によって(とら)え方が違います。

 

 

 

①  マルコ伝

 

「あなたはキリストです。すると,イエスは彼らを叱責して(●●●●)イエスについて(●●●●●●●)誰にも言わないよう命じた」(8-29・30)

 

 

 「叱責する」と訳したεπιτιμαω(エピティマオー)は,イエスが悪魔に沈黙を命じる際使われた言葉です。

 

つまり,きわめて強い叱責の表現なのです。

 

なぜイエスは,ペテロの告白を叱責したのでしょうか?

 

それは次の箇所,「イエスについて」に秘密があります。

 

マルコ伝全体の基調ですが,イエスは律法学者に対し嫌悪を剥き出しにしています。

 

それは取りも直さず,福音書記者マルコ自身が律法学者を嫌っていたからでありましょう。

 

なぜか?

 

それは律法学者(聖書学者や神学者のような存在)が,神を信じることなく,神について(●●●●●)あれこれ議論するからです。

 

彼らにとって神とは,生ける人格ではなく,単なる神学概念だったのです。

 

つまり,マルコ伝におけるイエスは,自身をキリストという神学概念で見るペテロを非難したのです。

 

この記事で私たちが理解すべきことは,「ペテロがイエスを誤解した」ということです。

 

 

 

②  ルカ伝

 

「神のキリストです」(9-20)

 

 

 マルコ伝とその他の資料(Q資料)を題材に福音書を執筆したルカは,マルコ伝の記事を書き換えています(9-21)。

 

「叱責した」を「命じた」に変え,「イエスについて」を「このこと」に変えているのです。

 

まるでマルコの激しい表現を和らげるが如くです。

 

また,ペテロの告白の後に,イエスの口に補足説明(●●●●)をのせております。

 

 

「人の子は苦しみを受け,殺され,三日目に復活する」(9-22)

 

 

 つまり,ルカ伝におけるイエスは,ペテロの不十分な理解を正しているのです。

 

「確かにわたしはキリストだ。しかしそれは,輝かしい栄光に(いろど)られた存在ではなく(まるでこの世の王のように),罪を負う神の小羊なのだ」と。

 

 

 

③  マタイ伝

 

「あなたは生ける神の子キリストだ」(16-16)

 

 

 マルコ伝の記事を参考にしたマタイ(実際には使徒マタイではなく匿名(とくめい)の誰か)も,ルカと同じように記事を書き換えています。

 

ペテロの告白は,イエスに対する誤解ではなく(マルコ),不十分な理解でもなく(ルカ),完全な認識であるとしたのです。

 

それは,後文が証明しています。

 

ペテロの答えの後,イエスはこう言いました。

 

「あなたは幸いだ(●●●●),バルヨナ・シモン(16-18)」

 

「幸いだ」と訳されたμακαριος(マカリオス)は,相手を祝福する表現です。

 

つまり,イエスはマルコ伝のように叱責するどころか,ペテロを称賛しているのです。

 

それだけではありません。

 

“イエス=救世主(キリスト)”と認識する者には,「他者の罪を赦す力」と「死の力に打ち克つ能力」を与えると約束しているのです(16-18・19)。

 

ペテロの誤解は,一転して,ペテロの正しい認識に変貌しました。

 

 

 

④  ヨハネ伝

 

「あなたは神の聖者だ」(6-69)

 

 最後に,最も後代に書かれたヨハネ伝です。

 

使徒ヨハネは,前記三福音書(マルコ伝・ルカ伝・マタイ伝,この三つを総称して共観福音書と呼びます)を題材にして,独自の福音書を執筆しました。

 

聖者と訳された語αγιος(ハギオス)とは,「神のために選び分けられた」という意味です。

 

神の経綸のために用意された特別な器,神の御心の体現者,という意味でしょう。

 

このペテロの告白に対し,イエスは何と答えたのでしょうか?

 

 

「わたしが,あなたがた十二人を選んだのではないか!?そして,あなたがたの内の一人は悪魔(●●)である」(6-70)

 

 

 「悪魔」と訳されたδιαβολος(ディアボロス)とは,「神に讒誣(ざんぶ)するもの」「事実でないことを言い立てて,相手を陥れる者」のことです。

 

いずれにせよ,このイエスの応答には,称賛でも叱責でもない,何か不穏なものを感じます。

 

言葉としては(●●●●●●),確かにペテロは正しかったのかもしれません。

 

しかし,心の奥底で本当に理解できているのだろうか?

 

恐ろしい,漠然とした,どす黒い不安なものが忍び寄っているのではないか?

 

こういったイエスの無言の思いが伝わってくるようです。

 

使徒ヨハネが表現しているのは,ペテロの誤解でも理解でもなく,“完全なる無知”なのではないでしょうか。

 

 

 

<四福音書の違い>

 

 

 

 「ペテロの告白」という同じ記事でも,マルコは誤解するペテロを,ルカは不十分な理解のペテロを,マタイは完全に理解しているペテロを,ヨハネは無知蒙昧(むちもうまい)なペテロを表現しています。

 

なぜ,このような違いが生じるのでしょうか?

 

それは,福音書はイエスの歴史的記録ではなく,福音書記者のイエス観(●●●●●●●●●●)だからです(シュヴァイツァー「イエス伝研究史」)。

 

 マルコにとって,イエスは約束されたメシア(●●●),苦難の(しもべ)でした。

 

ルカにとって,イエスは我々が模範とすべき義人(●●)でした。

 

マタイにとって,イエスは人類が従うべき()でした。

 

ヨハネにとって,イエスは()そのものでした。

 

 それぞれイエス観が違いますから,使徒ペテロに対する評価も違いました。

 

マルコにとってペテロは,批判の対象でした(原始教団のトップとして権威主義に走ったから)。

 

ルカにとってペテロは,パウロに次ぐ代表的な使徒でした(あくまでもパウロが最大の使徒ですから,ルカは続編である「使徒行伝」を書いたのです)。

 

マタイにとってペテロは,教会(エクレーシア)の支柱,最大の使徒でした。

 

ヨハネにとってペテロは,不完全な使徒でした(代表的な使徒であるペテロやヤコブに重要な位置が与えられず,ピリポ・アンデレ・ナタナエルらが多く登場する所以(ゆえん)です)。

 

 イエス観が違い,使徒の評価が違いますから,当然,福音書自体の中心メッセージも異なります。

 

マルコの中心メッセージは,「イエスに従え!」です。

 

ακολουθω(アコリュートー)(従う)」が多用される所以です。

 

ルカ伝の中心メッセージは,「イエスのように悔い改め,己の使命を果たせ!」です。

 

μετανοια(メタノイア)(悔い改め)がキーワードである所以です。

 

マタイ伝の中心メッセージは,「イエス・キリストに服従せよ!」です。

 

神の正義のために己を捧げること。

 

自ら決断し,自ら道なき道を拓き,イエスのように生きること。

 

δικαιοσυνη(ディカイオシュネー)(正義)やθελω(テロー)(欲する)・ποιω(ポイオー)(為す)が度々登場する所以です。

 

ヨハネ伝の中心メッセージは,「イエスの如く人を愛せ!」です。

 

人を愛する者こそイエスの弟子であり,愛する者の内にこそ永遠の命が宿る。

 

ヨハネ文書でαγαπη(アガペー)(愛)やζωη(ゾーエー)(生命(いのち))が重要な箇所で登場する所以です。

 

2022年 新年のご挨拶

明けましておめでとうございます。

 

今年もよろしくお願い申し上げます。

 

 私にとりまして,去年は色々と考えさせられる年でありました。

 

恩人の死がありました。

 

妻にガンの疑いがありました(幸いにも杞憂で済みましたが)。

 

否が応でも,「死」について考えざるを得ませんでした。

 

私の(よわい)も50に近づき,いよいよ人生の後半戦,いかに生きるべきか,どう命を使うべきかを改めて考えさせられました。

 

 

 

<私たちの使命>

 

①  生まれ落ちた時代・場所

 

 命の使い方,すなわち使命のことですが,それは各人各様でありましょう。

 

一方で,同じ時代,同じ国家に生まれたということは,何かしらの共通点があるかも知れません(シュタイナーやソロヴィヨフなどは,グループや集団としての使命があると述べています)。

 

2022年を迎えるにあたり,一度人生の歩みを止めて,これからの生き方について考えてみましょう。

 

 私たちが生きている時代とは,文明の端境期(はざかいき)でございます。

 

現代文明が誕生した紀元前5世紀前後のことを,哲学者ヤスパースは「枢軸時代」と呼びました。

 

この頃,インドでは釈迦が,中国では孔子と老子が活躍し,東洋文明の精神的基盤を造りました。

 

一方で,ギリシャではソクラテスやピタゴラスが,ユダヤでは預言者らがキリストの誕生を準備し,ギリシャ哲学とキリスト教という西洋文明の基礎を形作りました。

 

そして,約2500年をかけて,東洋文明はインド・中国を経て日本に流入し,西洋文明はヨーロッパ・アメリカを経て日本に流入したのです。

 

世界最大陸塊(ユーラシア大陸)から始まった現代文明は,世界最大海洋(太平洋)の真中で出会ったのです。

 

 サミュエル・ハンチントン教授が数年前に指摘したように(「文明の衝突」),現代は様々な文明が並存し,衝突しあい,互いに互いを憎しみ合っております。

 

誰かが,古い文明の長所を吸収し,新しい統合的文明の端緒を拓かねばなりません。

 

それは一体誰でありましょうか?

 

どういった個性の民族でありましょうか?

 

どの宗教にも心酔せず,どの宗教にも同情できる人々。

 

宗教的教義に頓着せず,人間が人間であるという理由だけで,寛容に受け入れることができる人々。

 

それは,我ら日本人ではないでしょうか?

 

 私は偏狭な愛国者なのでしょうか?

 

そうかもしれませんし,そうでないかもしれません。

 

しかし,考えてみて下さい。

 

仏教発祥の地・インドに仏教はありません。

 

儒教発祥の地・中国に儒教はありません。

 

キリスト教発祥の地・イスラエルにキリスト教はありません。

 

すべての宗教はこの日本に流れ来たり,長い時間をかけて熟成・発酵し,一つに溶け合って,新しき文明の扉を開く精神性を創造するのではないでしょうか?

 

これはいわば,新たな枢軸時代の始まり,第二の宗教革命であります。

 

しかも今度の革命は,ルターや龍樹・王陽明など,一人の霊的天才が興すものであってはなりません。

 

一人の天才に頼るが故に,宗祖が生まれ,それを崇拝し,人を生かすのではなく殺す「宗教」が誕生するのです。

 

今度の宗教改革は,絶対的リーダーのいない非中央集権的運動でなければなりません。

 

私の使命でもあなたの使命でもなく,我々の(●●●)使命でなくてはなりません。

 

 

 

②  不可思議な縁

 

 人間というものは,深い深い縁によって結ばれているものです。

 

皆さんも,今まで出会った人々を想起するとき,何か運命的なものを感じることがあるでしょう。

 

僭越ながら,私とあなたもそうではないでしょうか。

 

考えてみて下さい。

 

新しい宗教だとか転生だとか,そんなブログを誰が好き好んで読むでしょうか?

 

しかも,書いている本人は書きたいことを書きまくって,長文読解を読者に強いるのであります。

 

何とも不親切なブログではありませんか。

 

そんなブログを読み続けるあなたは,よほど強烈な“何か”を感じるから読んでいるのではないでしょうか。

 

それは他でもありません,私の魅力でも教養でもなく,この時代・この地に生まれ落ちた己の使命感,心の奥底にある深い疑問に触れているからであります。

 

 新しい宗教の流布―私はこれを「無宗教主義」と呼んでいます。宗教に入ってもいい,入らなくてもいい,宗教に無頓着な立場です―は,我々の使命であります。

 

「新しい時代の宗教(根本的価値)はどうあるべきか?」

 

それを考え,学び,読み,実行し,討論し,錬磨すること。

 

そして各自の持ち場において,真理のために戦うこと。

 

これが私たちの為すべきことではないでしょうか。

 

 私たちの使命は,「道」にたとえることができます。

 

道なき草むらに道を作ることです。

 

私たちが歩くことによって,そこに薄っすらと道らしきものができます。

 

後から来た旅人は,私たちが歩んだ道を歩みます(ある程度踏み固められて,容易に歩けるはずです)。

 

さらに後から来た旅人は,よりしっかりと踏み固められた道を歩けます。

 

そしていつの日か,我々の開拓した道が公道となり,多くの人々が行きかうようになるのです。

 

 

 

先陣を切った私たちの名は,誰も知りませんし,忘れられているでありましょう。

 

しかし,文明の大道を造るという意味で,我々の使命は重大であります。

 

 また,私たちの使命は「軍隊」にたとえることができます。

 

私たちは「偵察隊」のようなものです。

 

古来より偵察隊には,未知なる敵陣に突入することから,最も勇敢な強者(つわもの)が選ばれました。

 

えり抜きの,少数精鋭の勇者。

 

恐怖をものともせず,正義のために殉じることを願い,絶望のどん底でも理性を失わず,報奨を求めず,名誉さえも求めない。

 

そういう戦士です。

 

我々はいわば,神の戦士でなければなりません。

 

いや,「なければならない」というか,そうなるべく生まれて来たのであります。

 

 

 

<統合的存在論>

 

①  私の限界と反省

 

 私は数年前に,ある神秘体験をしました。

 

そしてこう考えたのです,「すべての宗教は神秘的次元でつながっている。キリスト教のエックハルト,イスラム教のバスターミー,仏教の龍樹らの神秘主義は,同一の精神的体験に基づいている」

 

こういう考えによって,私は神秘主義(●●●●)の立場から真理を語りました。

 

しかし,神秘主義は「神と私の個人的関係」のことでありまして,いくら私の体験やそこから付随する事柄を語っても,理解されるはずがありません。

 

 そこで次に,私は科学(心理学)を用いて真理を語ろうとしました。

 

フロイトの欲動理論によって人間の罪を語り,ユングの集合的無意識によって心を腑分けし,フランクルの実存的精神分析によって神を示唆し,その他様々な心理学者の理論を使い分けながら,総合的真理を語ろうとしたのです。

 

しかし,科学は所詮,科学でしかありません。

 

自然科学は狭い領域の学問でありまして,量的な問題を説明することはできても,深淵な領域,質的な問題については無力なのであります。

 

 次に私は,哲学によって真理を弁証しようとしました。

 

哲学はとりわけ私の好む学問でございまして,直観した真理を理性的に分析すれば,諸宗教を統合した“一なる真理”を説明することができると考えたのです。

 

しかし,これも間違いでした。

 

デカルト,ライプニッツ,カント,ヘーゲル,ショーペンハウエル,キルケゴール,ハイデガー,ヤスパースなど,読破した哲学書は数しれず,年々歳々本は山と積み重なり,年々歳々真理がわからなくなるのであります。

 

真理(啓示)は理性を超越するのでありまして,哲学は「真理が何でないか」を説明できても,「何であるか」を解明できないのです。

 

 2021年末,私は自分の間違いに気づきました。

 

あらゆる宗教・思想を包摂した統合的存在論という真理,そういった全体的(●●●)真理を,私が(●●)構築することはできないのです。

 

いや,できるできないではなく,一人の人間には許されていないのです。

 

私には知性の限界があります,知識の限界があります,さらに経験の限界もあります。

 

ある特定の両親の下に生まれ,ある特定の時代を生き,ある特定の出会いと別れを繰り返し,その結果として,ある特定の思想傾向を持つ人間。

 

そういった人間が,あらゆる思想や人間経験を包括することなどできないのです。

 

仮に私が,全体的真理を構築できたとしましょう。

 

その場合,もしその体系から外れる思想や人間が登場すれば,それ,もしくは彼らを,異端として排除する傾向を生んでしまいます。

 

私がやるべきことは,そういった閉ざされた全体性(●●●●●●●●)ではありません。

 

開かれた部分(●●●●●●)でなければなりません。

 

常に全体に対して開かれていて,「自分の考える真理は所詮,全体の一部分にすぎない」という謙虚さに裏打ちされたものでなければなりません。

 

 すべてに責任を持つ者は,すべての責任を放棄する者です。

 

無責任な者ほど,すべての(●●●●)責任を語るものであります。

 

本物の責任は,限定されたものでなければなりません。

 

固有の領域を持つものでなければなりません。

 

私は,全体的真理を発見するという無責任で無謀な態度を改め,私にしかできない慎ましい部分的真理に集中せねばなりません。

 

私の為すべきことは,この一点につきます。

 

キリストが私を救って下さったように,今度は私が,キリストをキリスト教から救うことです。

 

キリストとキリスト教,真理と宗教の違いを闡明(せんめい)にすることであります。

 

どんな武器によって,キリストをキリスト教から救い出しましょうか?

 

それは,キリスト教の反対物によってです。

 

私が考えますに,それは仏教,もっといえば「禅」だと思われます。

 

禅は,キリスト教のように特定の神を前提にしません。

 

禅は,キリスト教のように自然を無視しません。

 

禅は,キリスト教のように文字(経典)に執着せず,天国のような空想的世界に逃げ込みません。

 

そして,この禅こそ,日本で独特の発達を遂げ,日本文化の礎となりました。

 

神を前提にせず,自然を愛し,経典に振り回されず,徹底して人間を重んじる日本的禅の中に,キリスト教を破砕してキリストを救い出す「聖霊の剣」が宿っているのではないか。

 

考えてみれば,西田幾多郎は禅の立場から東洋哲学と西洋哲学を統合しようとし,井筒俊彦は禅の立場から東洋宗教(仏教・イスラム教・儒教・道教)を統合しようとしました。

 

私は禅の立場からキリスト教に立ち向かってみたいと考えています。

 

右手にある「原典聖書(ネストレ=アーラント)」と左手にある「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)(道元の主著)」,この二つが当面,私の研究対象となります。

 

 

 

②  共同事業(●●●●)としての真理研究

 

 さて,今年のブログの方針といたしまして,各項目ごとにこう予定しております。

 

まず“聖書研究”については,引き続きマタイ伝の言語的世界を研究し,その後,ルカ文書の解明に入る予定です。

 

パウロ・ヨハネ・マルコの語った福音とマタイやルカの福音は同じ精神なのかどうか,違うなら何がどう異なるのか,毎晩思索を重ねるつもりです。

 

“生まれ変わり”につきましては,以下の人物たちに言及するつもりです。

 

経済学者シュンペーター,法哲学のハイエク,実存主義のサルトル,イギリスの首相マーガレット・サッチャー,マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツ,文豪トルストイ,徹底したリアリストのマキャベリ,哲学者のウィトゲンシュタインやシェリングなどです。

 

可能であれば,オイラーやガウスなど,数学者についても触れたいと考えています。

 

“社会批評”に関しましては,去年と同様,政治・外交・経済・金融など,世界の動向や日本社会の問題点について論究していく予定です。

 

また,YouTubeも始めてみようかと考えています。

 

「読む人」もいれば,「聞く人」もいるからです。

 

英語の字幕をつければ,あるいは日本人以外の方々にも私の声が届くかもしれません。

 

 今までは極力,コメントには答えないようにしてきました。

 

あまり時間がなかったことと,私は私の(●●)真理を語るのであって,一緒に作り上げるという発想がなかったからです。

 

しかし,今年からは態度を改め,どんなコメントでも応じる予定です。

 

真理の闡明は,私の事業ではなく,我々の事業であります。

 

真理は,孤独な沈思黙考から生まれるのではなく,異質な他者との交流によって生まれます。

 

わからないことがあれば,何でも質問してください。

 

あなたが質問することによって,質問できない人が理解をより深める機会が生まれます。

 

誰かが以前質問したことでも,あなた自身がわからなければ聞いてください。

 

何度も何度も質疑応答を繰り返すことにより,学びが深まるからであります。

 

無知を恥ずかしがらず,基本的なことであっても聞いてください。

 

あなたが尋ねたことにより,我々のコメントを読む人の心の中で,古い真理が甦るからであります。

 

私に間違いや不備があれば,どんどん指摘してください。

 

それは私の学びになり,刺激になり,より一層真理欲が高められるからです。

 

 私たちは,互いに顔も知りませんし,年齢や職業や経歴も知りません。

 

しかし,それでいいのかもしれません。

 

外見的・表面的属性を知らないからこそ,我々は互いの精神によってつながることができるのです。

 

それは,最も強固なチームになるやもしれません。

 

 現実世界において,私たちの持ち場は違うでありましょう。

 

個別的使命は,色々でありましょう。

 

ある人は職場や家庭の一隅に光を灯しているかもしれません,ある人は子どもを養い導き後世につないでいるかもしれません,ある人は死にゆく病人のかたわらで必死に看病しているかもしれません,ある人は経済的不遇に喘ぎながら自己の運命と戦っているかもしれません,あるいは,病気や事故によって身動き一つ取れず声もあげられない人かもしれません。

 

いずれにしましても,私たちはこの人生を戦い抜いて,少しでも道なき道を拓き,生まれてきた時より少しでもこの世界を善くしようではありませんか。

 

 以下は,思想家レッシングの言葉です。

 

2022年の私の抱負とさせて頂きます。

 

 

「人間の価値は,誰かある人が所有している真理,あるいは所有していると思っている真理にではなく,真理に到達するためにその人が払った誠実な努力(●●●●●)にある。というのも,人間の力は,所有によってではなく,真理の探究(●●●●●)によって増すからであり,人間の完全性が絶えず成長するのは,ひとえに真理のかかる探究によるからである。所有は沈滞させ,怠惰にし,傲慢にする。・・・もしも神が右手に一切の真理を,左手に真理を探究せんとするただ一つの常に生き生きとした衝動を握り給い,私に<選べ>と言われるとしたら,たとえ後者には不断にまた永久に迷わすであろう仰せ言が付け加えられていようとも,私は慎ましく神の左手にすがり,<父よ,これを与え給え。純粋の真理はひとえにあなたのみのものなれば>と言うであろう」(レッシング)