三浦瑠麗氏「21世紀の戦争と平和」の誤謬 | 真理の研究

三浦瑠麗氏「21世紀の戦争と平和」の誤謬

 

「君の世界を救うために,君はこの男に死んでくれと頼んだ。もし,彼が君に会ったなら,この男は“なぜ”と尋ねるだろう」(W・H・オーデン「無名戦士のための墓碑銘」)

 

 

 

一.「21世紀の戦争と平和」の概要

 

 三浦瑠麗氏の論旨はこうである。

 

戦争は,必ずしも専制国家が起こすものではない。

 

かえって,民主国家においてこそ,容易に,きわめて安易に起こり得る。

 

“国防を一部の人間に委任する政治体制”において,国民は安全保障を他人事(ひとごと)だと思い,一時(いっとき)の感情によって戦争を是認し易い。

 

というのも,たとえ戦争になっても,自分とその家族の血が流れないからだ。

 

顔も名前もわからない他人の血が流れるだけ。

 

故に,自衛を特定少数の人間に押しつける国民は,政治の第一優先課題ともいうべき安全保障について,思考停止の状態に陥り易いのである。

 

 つまり,戦争が起こる原因は,“血を流す者”と“血を流させる者”との分断である。

 

一部の人間に国防を委任するのではなく,誰もが国防に関わること。

 

三浦氏のいう「血のコスト」を均等化することこそ,戦争を止めるための現実的な方策である。

 

そして,“血のコストを均等化する”とは,全国民が国防に参与すること,すなわち「徴兵制」である。

 

簡単に言えば,これが三浦瑠麗氏の主張である。

 

 すべての人が国を守り平和を維持する手段について熟考すべきこと,すべての人が国防に参与すること,安全保障を自らの主体的問題として引き受けることなど,大いに賛同せざるをえない。

 

しかし,彼女の見解には,三つの大きな間違いがある。

 

 

 

二.三浦瑠麗氏の誤謬

 

① 一般民衆に対する見解

 

 第一の誤謬は,一般国民に対する見解である。

 

彼女は言う,「誰もが血のコストを負担するようになれば,安全保障について真剣に考えるようになる」と。

 

本当にそうだろうか?

 

確かに,彼女や彼女の接してきた人々,彼女の身近な人間はそうかもしれない。

 

しかし,国民の大多数は,彼女が考えるほど理性的ではない(●●●●●●●)

 

国民の大多数は感情で動く。

 

残念ながら,国民のほとんどは,非理性的で情で動く人々なのだ。

 

“血のコスト”という心理的圧迫に直面して,冷静に思考できる人間は国民の上位数%のみであろう(この“上位”というのは,学歴や知能指数など知的レベルのことである)。

 

三浦氏が,今までどういった人々と出会い,どういったバックグランド(年収・社会的地位や成育環境など)を持つ人々と接してきたか,私は知らない。

 

だが,文面から察するに,経済的にも教養的にも平均以下の人々の思考方法や一般的傾向をわかっているのだろうか,少々疑問である。

 

優秀なエリートである三浦氏は,“国民なるもの”に対して幻想を抱いているのではないだろうか。

 

 彼女はこう反論するかもしれない。

 

「徴兵制にすれば戦争が減ることは,データが示している。データこそ客観的な指標ではないか」と。

 

しかし,そのデータとやらが問題なのだ。

 

欧米各国やイスラエルは,キリスト教やユダヤ教の国々である。

 

今でこそ宗教的熱情は鎮火ぎみだが,そもそも伝統的に一神教的考えが根付いている国々である。

 

唯一神の前での責任,これが政治的権利の本質である(自由は,努力すべき義務(●●)であって,要求すべき権利(●●)ではない)。

 

そういった国々と,仏教や儒教という微弱な倫理観に培われた経験しかなく,高貴な義務や自由の観念がない日本人を,同列に比べることはできない。

 

 故に,“徴兵制を採用すれば政治的関心が増す”というのは,楽観的な幻想である。

 

徴兵制にしたところで,多分何も変わらない。

 

平均レベル以上の学力の子は,点数が下がれば悲嘆する。

 

しかし,学力的に相当劣る子は,成績が下がっても何も感じない。

 

そもそも興味がないし,どうでもいいのだ(知的な劣等感は,それ自体が,ある程度の知性を有している証左である)。

 

そして,残念ながら,国民の知的レベルにおける人口比率は,生物学における個体数ピラミッドと同じく,低い者ほど多いのである。

 

それと同様に,愛国心や高い知性を有する者(三浦氏のように)は,きわめて少数である。

 

愛国心もない理性的に考えることもできない人間集団に血のコストを負担させても,“政治的・倫理的な思考停止”という病は治らない。

 

むしろ,一層過激化する可能性さえある。

 

 

 

② カント哲学に関する見解

 

 誤謬の第二は,カント哲学に対する理解である。

 

彼女は言う,「国内社会における負担の分かち合いという真の正義の実現と,世界の民の共通利益への収斂(しゅうれん)こそが,人類の共存と平和をもたらすというカントの思想の()」と。

 

確かに,カントの政治論「永遠平和のために」では,そのようなことが書かれている。

 

しかし,それがカント思想の核ではない。

 

三浦瑠麗氏に比べれば学歴においても実績においても劣る私であるが,カント哲学に関しては真剣に学んできたつもりである。

 

初期の著作(一連の科学的論考,「視霊者の夢」)から三大批判書(「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」)や形而上学の草稿(「自然の形而上学」「人倫の形而上学」),そして晩年の宗教論・人間論(「単なる理性の限界内の宗教」「人間学」)など,カントの著作を20年以上に渡って吟味し続けてきた。

 

そういった人間の立場から言わせてもらえば,カント思想の核は,外面的な倫理的・政治的平和ではない。

 

 

 

カント哲学の本質は,“神の国実現”のための“キリスト教倫理の復権”である。

 

カントは,敬虔主義の家庭に育ち,「知性の傲慢を挫き信仰に余地を与えるため(純粋理性批判序文)」著作活動を開始した。

 

また,時の政権に抗して,福音を弁護しようとした者である。

 

カント哲学の本質を政治や外交という表層的問題に限るとは,誤謬を通り越して傲慢でさえある。

 

 残念ながら,彼女は聖書を知らない。

 

知識として知っているかもしれないが,霊的に理解していない。

 

故に,カントを誤解するのである。

 

哲学者の思想の本質は,その人間観によく表われる。

 

カントは,他のどの思想家よりも人間を信じた。

 

ただし,この場合の人間とは,“現実ありのままの人間”ではなく,“理念としての人間”である。

 

カントのいう人間とは,人類全体ではなく,少数のエリートでもなく,個人そのものでもない。

 

各々の具体的な人の内に宿る「本来的人間の理念(パウロのいう“新しいアダムとしてのキリスト”)」である。

 

 故に,カントが平和の前提とした福音を抜きに,彼の政治論だけを取り出して云々(うんぬん)するのは間違っている。

 

というか,本質がずれている。

 

カント的立場に立てば,真の(●●)平和は制度をこねくり回すことで実現しない。

 

恒久的平和は,第一に心の内部(精神)において,第二に倫理的方面において,最後に政治的方面において実現すべきものである。

 

三浦瑠麗氏の主張が,「一時的な平和を実現する」方策であっても,「永遠平和を実現する」手段でない所以である。

 

 

 

③ 戦争の根本的問題

 

 第三の誤謬は,“罪の問題”を(ないがし)ろにしていることである。

 

彼女は言う,平和を実現するには,「相互利益によるグローバリゼーションが最後の希望である」と。

 

この場合のグローバリゼーションとは,マルクスが用いた“資本主義経済の暴力的拡大”ではなく,“異文化・異質な人間を受容すること”である。

 

確かに,他者を寛容に受容することは,平和実現のために必要である。

 

なぜなら,排他的な態度や誰かをスケープゴートにすること(ナチスにおけるユダヤ人,共産主義におけるブルジョアジー)が,戦争を引き起こすのだから。

 

しかし,私は思う。

 

「ならば,どうすれば異質な他者に対して寛容になれるのか?」と。

 

広く世界を見聞すればいいのか?

 

それとも,感情移入か?

 

あるいは,「人権尊重」という美名の(もと),自他の違いに無頓着になることか?

 

寛容は,そんな浅はかな手段で身につくものではない。

 

世界を知り尽くしても,寛容になるとは限らない。

 

ますます偏狭になる可能性もある。

 

日本人の大好きな感情移入とやらは,自分を他者の立場に置くことではなく,他者を自分の立場に置くことである。

 

無頓着的人権擁護は,寛容ではない。

 

お上品な交わりの拒否である。

 

戦争は,相互利益を構築すれば避けられるものではない。

 

経済的に相互依存しても,幾多の戦争は起こったではないか!?

 

 人間の心の内には,罪(the sin)という化け物が棲んでいる。

 

その化け物ゆえに,人間は利己的で,傲慢で,偏狭で,自分の欲望充足(性欲・食欲・金銭欲・名誉欲など)のためであれば,他者を非人格的に扱っても意に介しないのだ。

 

 「罪」という言葉が何か宗教っぽく胡散(うさん)臭いと感じるのであれば,心理学的な用語である「サディズム(攻撃性)」とでも呼ぼうか。

 

平和を実現するために必要なことは,人間固有のサディズムを克服することである。

 

サディズムの原因は,人間の恐怖である。

 

何かを恐れるが故に,攻撃的になって自己防衛しようとするのだ。

 

ならば,その恐怖はどこから来るのか?

 

それは,ヘーゲルのいう“不幸な意識”である(「精神現象学」)。

 

私という一つの人格が,“主人と奴隷”に分裂してしまっているのだ。

 

主人が表に出れば支配的となり,奴隷が表に出れば他人に隷属する。

 

世間一般にSとかMとか言われているものは,実はその本性を同じくしている。

 

SとMになる根本原因は,内面の分離,良心の矛盾,自我と非我の分裂なのである。

 

では,どうすればこの分裂を克服できるのか?

 

どうすれば,分裂した自我と非我は,再び一つの人格として合一し,本来の人間性を取り戻すのか?

 

それは,神の子(キリスト)の犠牲である,十字架の(あがな)いである。

 

彼が,彼のみが,罪を取り除き,人間を根本的に変えることができる。

 

 いずれにせよ,戦争をなくすためには,各人の人格的覚醒が必要である。

 

単なる自我(エゴ)は,国家に自己を投影し,自己肥大のために国家を利用し,最終的には自衛と称して侵略戦争を是認するようになる。

 

一方で,人格(セルフ)は,その敵を愛し,憎しみと復讐の悪循環から脱却することができる。

 

人格は,神の秩序を求める。

 

また,悪の根源に克たんとする“真の尚武(しょうぶ)の精神”を発揮せしめる。

 

罪の問題を解決せずして,永遠平和は絶対に来たらない。

 

言い方を変えれば,イエスの精神,福音書なしに,平和を論じても意味がない。

 

 

 

④ 三つの誤謬の根源

 

 私は今まで,三浦氏の三つの誤謬を指摘してきた。

 

民衆に対する幻想,カント哲学の誤解,罪の問題の忘却。

 

では,なぜこういった誤謬を,鋭敏な頭脳と知識と弱者擁護の倫理観をあわせ持つ三浦氏が犯してしまったのだろうか?

 

私は,彼女の「理性主義」が,すべての過ちの原因であると考えている。

 

 理性主義とは,「人間には健全な理性が宿っていて,この理性を発揮すればすべての問題が解決できる」という立場だ。

 

頭がいい人が陥る(わな)である。

 

頭で世界を支配しようとすることである。

 

理性主義の特徴は,人間心理に対するその楽観的態度にある。

 

人間の邪悪さ,「井戸の底のような悪の深淵(ニーチェ)」に対して,目を(そむ)ける傾向がある。

 

つまり,悪を矮小化(わいしょうか)してしまうのだ。

 

 「感情的になることは悪,理性的であることは善だ」と,普通の人は考える。

 

しかし,理性主義が多くの間違いを犯してきたことを忘れてはならない。

 

ルソーの理性主義が,フランス革命という混乱とロペスピエールの圧制を生んだ。

 

ヘーゲルの理性主義が,マルクスの共産主義思想を生み,ロシア革命という暴力とレーニンの専制を生んだ。

 

必ずしも,理性的・常識的なことが,平和を産む原因ではない。

 

歴史を振り返れば,ある意味で「狂」の人が,平和を実現してきた。

 

イエスは当時の人々にとって狂人だった(マルコ伝3-21)。

 

ソクラテスはアテナイ人にとって狂人だった。

 

ガンディーもそう,シュヴァイツァーもそうである。

 

平和を実現する人は,力よりも愛をとる「狂」の人なのである。

 

 三つの政治的態度がある。

 

第一に,進歩主義。

 

進歩主義は,害悪是正のために革命を是認する。

 

フランス革命は,この立場によって引き起こされた。

 

第二に,保守主義。

 

伝統を絶対化する立場である。

 

イギリスの立憲政治は,この立場によって貫かれている。

 

進歩主義は“未来に対する楽観的態度”であり,保守主義は“過去に対する楽観的態度”である。

 

前者は反人格的であり,後者は非人格的である。

 

ここで,第三の立場がある。

 

人格主義だ。

 

進歩主義も保守主義も,散り散りになった時間意識に支配されており,人格的実現を知らない疎外された意識という意味で“同じ穴のムジナ”である。

 

人格主義は,人格をすべての土台と考える。

 

人格とは,過去・現在・未来を統合した実存的時間に生きる立場である。

 

真の伝統主義(過去から善き精神を継承する)であると共に,真の革命主義(未来の人々に責任を持つ)でもある。

 

いや,人格主義が革命的なのではなく,人格こそ革命そのものというべきだろう。

 

 三浦氏は言う,「利害が強く認識されないイデオロギッシュな平和運動は熱しやすく冷めやすい」と。

 

が,私は言う。

 

「神の国の理念なき平和運動は,たとえ利害が認識されたとしても,強力かつ持続する力にはなり得ない」と。

 

 

 

三.恒久平和のために

 

「神の王国,つまりラマラジャ(パンチャーヤット・ラージ)がこの国に優勢にならない限り,私は安心して死ねません。そうなって初めて,インドは独立したといえます」(ガンディー)

 

 

①  平和運動の精神

 

 三浦氏の著書に対して,若干の論評を加えてきた。

 

単なる否定は,社会人としてあってはならない行為である。

 

三浦氏のような信念のある者の主義主張を批判する場合,自分自身の見解と代案も提示するのが筋というもの。

 

では,私の見解を示そう。

 

 そもそも,平和運動の源流とは,どこにあるのだろうか?

 

それは,イエスの生涯とその教えである。

 

十字架の死に至るまで愛を貫いたイエス・キリストの生き方と,山上の垂訓(神の国の倫理)に代表される彼の教えが,平和という概念の原点である。

 

このイエスの精神が,文豪トルストイを感化し,ヒンドゥー教徒のガンディーを感化し,キング牧師を黒人差別撤廃運動の闘士に変えた。

 

全体主義と対決したハンナ・アーレントも,ナチスの暴力に立ち向かったボンヘッファーも,(しいた)げられた人々のために一生を捧げたシュヴァイツァーも同じである。

 

 理性主義は,往々にして,目的のために手段を正当化する。

 

未来のユートピアのために,現在の暴力を認容する傾向がある。

 

目的>手段,これが全体主義の立場だった。

 

ルソー然り,マルクス然り,ロペスピエール然り,ヘーゲル然りである。

 

一方,暴力に反対する立場,戦争そのものと戦う平和主義者は,高貴な手段を重視する。

 

目的が平和なら,手段も平和(愛)を貫く。

 

これがイエスの立場であり,ガンディー・キング牧師・シュヴァイツァーの立場だった。

 

人は言う,「ガンディーはインド独立の英雄である」と。

 

それは違う。

 

彼は,世界史における最大の革命家である。

 

戦争を量産する近代国家に挑戦した唯一の男であり,キリストの精神を政治に適用した初めての人物だからである。

 

 

 

②  戦争の三つの次元

 

 ここで読者諸氏は指摘するかもしれない。

 

ガンディーが対決した大英帝国は,キリスト教国家だった。

 

キング牧師が対決した人種差別のアメリカ合衆国も,キリスト教国家だった。

 

ボンヘッファーが対決したナチス・ドイツでさえ,当時虚無主義(ニヒリズム)が支配していたとはいえ,そもそもがキリスト教国家である。

 

彼らはみな,イエスの教えがある程度浸透した国家と戦ったからこそ,非暴力・愛の力で平和を実現することができたのではないか!?

 

我ら日本人がガンディーのやり方を真似たところで,ガンディーと同じように平和を実現できるだろうか?

 

すなわち,無神論国家の中国共産党に対し,ガンディー流の非暴力主義は,かえって中国の侵略欲を刺激するだけではないのか?

 

 以上の疑問に答える前に,戦争には三つの次元があることを提唱したい(三浦瑠麗氏は平和の五つの次元を提唱している)。

 

根源的次元(下部構造)に位置するのは,サディズムの根,罪の問題,内心の分離である「(プネウマ)の次元」である。

 

その上位に位置する第二次レベルが,倫理的な行為に関する問題,教育によって解消できる「(プシュケー)の次元」である。

 

そして,上部構造である第三次元が,戦争の問題(経済戦争も含む),勢力均衡(バランス・オブ・パワー)によって一時的な平和を実現する「(サルクス)の次元」である。

 

真の平和は,根源的な罪の問題を解決しなければ得られない。

 

これは宗教の領域である。

 

一方で,精神的平和を実現するためには,肉体的生存が保障されていなければならない。

 

精神的感化には時間がかかる,その間に肉体的生命が失われてしまえば,精神的覚醒を遂げる機会を逸することになる。

 

故に,精神的覚醒を実現する時間確保のため,肉の次元における平和を維持せねばならない。

 

愛国的思想家フィヒテも指摘したように,マキャベリやモーゲンソー流の勢力均衡は真の平和ではなく,堕ちた世界の平和である。

 

しかし,堕ちた世界の平和であるにせよ,真の平和を実現する時間的猶予のために必要不可欠である。

 

 本当の平和を実現するためには,イエスの精神を広める必要がある。

 

これは,霊の次元の問題である。

 

そのためには,肉的平和を確保せねばならない。

 

現代のナチス,侵略国家・中国の野望を抑止するために,軍備増強と同盟強化により,勢力均衡をはかる必要がある。

 

また,できうる限り,現状変更を避けねばならない。

 

なぜなら,日本は第二次世界大戦で負けた国である。

 

現実世界のルールは,勝者の論理によって設計されている。

 

日本が核兵器を持ったり徴兵制を採用した場合,戦勝国を一斉に敵に回す可能性がある。

 

有力な同盟国を失ってしまう孤立は,それこそ第二次大戦の二の舞である。

 

政治制度の変更は最低限に控え,被爆国としての立場を利用しつつ,同盟国との合意の下,貪欲国家・中国に対抗すべく軍事力を強化する必要がある。

 

「平和の精神を広めつつ,自衛のため軍備増強する。要はこれ,ダブルスタンダードではないか!?最も卑怯な手段ではないか?それこそ,イエスの精神に反するのではないいか?」

 

そう問われるかもしれない。

 

しかし残念ながら,今の日本にはそれしか手がない。

 

そもそも,ガンディーやキング牧師の非暴力主義が成立した背景には,宗教的覚醒があったことを忘れてはならない。

 

ナーナク,ヴィヴェーカーナンダの宗教改革があったればこそ,ガンディーの政治運動が成立し得た。

 

ジョナサン・エドワード,ジョージ・ホイットフィールドの宗教的覚醒運動があったればこそ,キング牧師の活動が成立し得た。

 

精神的革命なくして,道徳的革命はあり得ない。

 

非暴力・愛の軍隊の形成には,国民の精神的覚醒が必須なのである。

 

 

 

③  第三の道

 

 リアリズムは,愛なき力の道である。

 

リベラルは,力なき愛の道である。

 

前者は単なる平和の持ち越しであり,後者は非現実的感傷主義である。

 

日本は,第三の道を行かねばならぬ。

 

力ある愛の道,愛が力である道である。

 

この場合の愛とは,子どもの出産でも,結婚という社会的関係の成就でも,ましてや,性的欲求の満足でもない。

 

人格の実現,神の内に愛する者の面影(おもかげ)を見ることである。

 

量的な制限の下にある生物学的個人の道ではなく,質的な無限の下にある精神的人格の道である。

 

前者は,外部から強制されて団結し,無個性で均質的な集団(●●)をつくる。

 

一方で後者は,内的・有機的に調和し,各人の独自性が生かされる共同体(●●●)をつくる。

 

人格とは,神と人の絆であり,人と人とが自由と愛によって協働することである。

 

“人格の実現”という精神的覚醒を経て初めて,日本及び日本人は平和の使徒たりうる。

 

 

「イエスの内へと透入する者に対しては,一切は道を譲るに相違ない。そして何ものも―書物も,またこの世界も―彼に対して困難を与えることはできない。なぜなら,精神的憧憬の目標であるキリストの精神が彼の内に住することによって,彼はイエスに変身しているからである」(ニコラウス・クザーヌス)

 

 

 

四.最後に

 

 以上,三浦瑠麗氏の著書をきっかけに,戦争と平和について考察してみた。

 

今まで彼女の見解の誤謬を指摘してきた訳だが,三点ほど明らかにしておくべきことがある。

 

 第一に,常に「自由」を弁護しようとする彼女の政治姿勢には共感していること。

 

第二に,自身の凄惨な体験を背景に,「安全」という問題に鋭敏な感覚を持ち合わせ,“むき出しの暴力から人間を守らん”とする真摯な姿勢には敬意を表していること。

 

第三に,自分の国は自分で守るという自立的国家観には賛同していること。

 

 昔,ハンナ・アーレントという政治学者がいた。

 

全体主義という暴力に対し思想戦を挑み,自由と共生の政治思想を追い求めた人物である。

 

 

三浦瑠麗氏は,アーレントのような形而上学的思弁をしない。

 

が,暴力と向き合い,自由と安全を保障する道を求め,あくまでも言論によって問題を提示しようとする態度は通底している。

 

現代日本のアーレントとして,日本人の政治意識向上のため,これからも戦われることを望む。

 

「自らを防衛しない人民は,生ける(しかばね)にすぎない」(ハンナ・アーレント)