神々はホルモンを操る──スピリチュアルと量子力学で読み解く石像のメッセージ
皆様こんにちはいかがお過ごしでしょうか。私は出張中で毎日約1万歩以上歩いています。そんなに身体を鍛えているわけではないのですが、ふと目に止まる様々なものの不思議を深掘りしたくなります。
銅像ホルモンから読み解く、日本人とバリ人の精神宇宙、旅先で、ふと心をつかまれる瞬間があります。それは寺院の静けさの中、通りの片隅、あるいは朽ちかけた石像の前。
そのとき、私は一体の像を前に、こんな言葉が頭をよぎりました。「ヒンドゥー教の銅像はアドレナリン全開。仏教の銅像はセロトニン全開だな」この一見ユニークな比喩は、単なる印象論ではなく、
文化や精神性を貫く“生き方のホルモン論”として深く機能している。そう気づいた瞬間でした。
■ アドレナリンの像:火と衝動の神性
ヒンドゥー教の神々は、とにかくエネルギーに満ちている。
踊るシヴァ神、怒りに燃えるカーリー女神、多腕で武器を構えたドゥルガー。
その姿は、闘争・挑戦・破壊・創造といった、「生存本能の最前線」にある力を象徴しています。このホルモンでいえば、まさにアドレナリン。闘うとき、挑むとき、守るとき、体を駆け巡る覚醒の物質。血流を早め、思考を鋭くし、状況に対して「立ち上がれ」と促す。
ヒンドゥーの神々は、私たちの中に眠る火の側面を呼び覚まします。それは怒りや野望といった「厄介な感情」すら、超越的なエネルギーへと昇華する術を教えてくれる存在です。
■ セロトニンの像:静と慈悲の仏性
一方、仏教の像たちは、まるで別の次元にいます。
阿弥陀如来の穏やかな眼差し、観音菩薩の慈愛に満ちた手つき、座禅を組み、瞼を閉じる釈迦如来。彼らが象徴するのは、外界に打ち勝つことではなく、内面と調和する力。執着を手放し、怒りを溶かし、欲を整える。ここに流れるホルモンは、セロトニン。心を安定させ、呼吸を深め、今という瞬間に「満ち足りる力」を与えてくれる。
この仏たちは、“水のように在る”という在り方を思い出させてくれる存在です。力まず、流されず、すべてを包み込むように生きること。その静けさは、決して「弱さ」ではなく、深い強さの証明でもあります。
■ 銅像ホルモンは、私たちの「内なる二神」かもしれない
こうして見ると、アドレナリン的神々とセロトニン的仏たちは、対立するものではなく、むしろ私たちの中に共存する「二柱の神」なのだと気づきます。
- 「立ち上がれ」と叫ぶ内なるカーリー
- 「そのままでいい」と囁く内なる観音
そのどちらも、日常の中で私たちが繰り返し出会う声です。
◆ スピリチュアルな視点から見た「銅像ホルモン」
スピリチュアルの世界では、人間の魂には二つの衝動があると言われます。
- 魂の進化・拡大を目指す“火の衝動”(アドレナリン)
- 存在そのものに満ちる“調和の記憶”(セロトニン)
火は試練を呼びます。変化、痛み、混乱さえも糧にする力。
水は癒しを与えます。受容、慈しみ、赦しによって「あるがまま」を肯定する力。
ヒンドゥーの神像が呼び覚ますのは、あなたの「行動の魂」。
仏教の像が響かせるのは、あなたの「存在の魂」。
つまり、石像はただの宗教美術ではなく、あなたの魂の鏡なのです。
◆ 量子力学の視点から:波動としての神と仏
量子物理学の世界では、あらゆるものは波動=エネルギーの振動でできているとされます。
物質も、感情も、記憶も、そして意識さえも。
そして、この宇宙に存在するものは、すべて周波数を持つ。
怒り・恐れ・挑戦――それらは高振動のアドレナリン波。
慈愛・穏やかさ・共鳴――それらは安定したセロトニン波。
つまり、神像や仏像が持つ造形や表情、ポーズの「波動」もまた、
私たちの波動と共鳴し、内なるリズムを再起動させる“共振装置”だと考えられるのです。
- シヴァ神を見て「熱くなる」のは、火の波動と共鳴したから
- 観音像を前に「涙が出る」のは、水の波動が整えてくれたから
目に見える像が、目に見えないエネルギーを動かす――
それが量子場における「神仏のリアリティ」かもしれません。
■ 魂は、火と水でできている
だからこそ、アドレナリン的な日々も、セロトニン的な静寂も、
どちらかを否定せず、どちらも自分の中にあることを認めること。
燃えよ。そして澄め。
激しく挑み、静かに整う。
生きるとは、常にその振り子を揺らしながら進む旅なのかもしれません。
■ 最後に:あなたの中の「像」が語りかけている
次にどこかの国で、ふと石像の前に立つことがあれば、
その表情や動きが何のホルモンを呼び起こしているか、感じてみてください。
それはもしかしたら――
あなた自身の“現在の魂の状態”を、静かに映し出しているのかもしれません。
燃えながら、澄んでいる。
その矛盾を抱きしめたとき、ようやく人は本来のリズムを取り戻すのです。