「科学とスピリチュアルをつなぐ量子論:命の余韻に触れて」
皆様こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。
昨日は夏のような陽射しでしたのに、今日はひんやりとした風が肌をなでています。
お気に入りのクロワッサンを買いに、日傘を差して歩くその小道は、季節の移ろいとともに、静かに私の心をほどいてくれます。
このところ、親しい方々とのお別れが続き、胸の奥深くに「諸行無常」の響きが静かに染み入っています。
なぜだか、あの頃は「明日が永遠に続く」と信じて疑わなかった。
元気だったからこそ交わせた言葉、軽々しく放ってしまった一言。あのときちゃんと伝えていればよかった「ありがとう」の一言が、今も胸の奥で静かに疼いています。
私たちはつい、「変わらぬ日々」が続くものと思い込んでしまいます。
けれどそれは、生命のはかなさに背を向けた、優しい幻想なのかもしれません。
生物学的に見れば、人の身体は常に変化し、細胞は絶え間なく生まれ変わっています。
皮膚はおよそ1ヶ月で新たに生まれ、血液も定期的に入れ替わる。
けれど、心臓や脳の細胞は私たちの一生を支え、ある日その鼓動を止めたとき、私たちは「この世界での役割」をそっと終えるのです。
科学の目で見れば、死はひとつのプロセスであり、生命機能の停止にすぎません。
しかし、記憶し、愛し、繋がり合って生きてきた私たちにとって、それは「ただの終わり」ではありません。
戻らない声、もう触れられないぬくもり――。その喪失は、理屈を超えた深い波のように、心に寄せては返します。
スピリチュアルな視点では、肉体は借り物に過ぎず、魂は永遠の旅人だと言われます。
たとえ姿を見失っても、その人の存在は波動となり、思い出や愛という名の光になって、私たちのまわりにそっと漂っているのかもしれません。
量子物理学の世界では、「観測されるまでは存在が確定しない」という不思議な法則があります。
そう考えると、私たちが大切な人を思い出すその瞬間、彼らは意識の中に再び現れ、私たちと共に”今”を生きているとも言えるのではないでしょうか。
仏教では、「諸行無常」と説かれます。
すべてのものは常に移り変わり、決して同じ形では留まらない。
だからこそ、一つひとつの出会いも別れも、かけがえのない「いのちの証」。
後悔の念は、どれほど深く大切だとかんじていたかの裏返しです。
その想いを手放さず、慈しみに変えていくこと――仏の教えは、私たちにそう語りかけているのかもしれません。
こうして多くの視点から眺めてみると、「命の終わり」とは、ただの別れではなく、
私たちに「どう生きるか」を深く問う、大切な贈り物なのかもしれません。
言えなかった「ありがとう」は、今のあなたの優しさとなって、
今日出会う誰かの心に、そっと届いていく。
そのやさしい循環こそが、形を変えた“つながり”であり、命のバトンなのだと、信じています。