自分らしい生き方 | 日本文化、世界の歴史・健康・ミライにチャレンジ

自分らしい生き方

先日、大正ロマン展を見に行き画家がこぞって描いている女性がいたので興味を惹きました。

【唐人お吉】悲劇の女性とも言われています。

もちろん、色々な画家が悲恋を表すような画風で描いていますが どんなストーリーが隠されているのか知りたくなっちゃった。薔薇




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嘉永6年、突如、ペリーが浦賀に来航し、泰平の夢を貪っていた。江戸幕府に日米和親条約の締結と下田、函館の開港を迫り、翌年これを締結した。そして、安政3年には下田に着任したハリスによって、日米通商条約の締結を迫られる。


対応に苦慮した下田奉行は交渉の進展の為、又、米側の懇請もあり、ハリスの看護人として、新内お吉と呼ばれる名妓お吉を差し出すことを決めた。お吉は、はじめきっぱりと拒絶するが、奉行所の役人や名主は無論のこと、言い交わした船大工の鶴松にまで説得されて、泣く泣く領事館の置かれた玉泉寺に通う事を承知する。
必死のご奉公であった玉泉寺通いは、短期間で済んだのだが、そんなお吉を世間は、唐人お吉、異人の女房などと白眼視して迫害するのだった。


新内お吉と呼ばれたその腕だけを頼りに下田を捨て、転々として横浜に流れついたお吉は、尾花うち枯らした鶴松と再会し、二人で一からやりなおそうと手を携えて、下田に戻ってくるのですが・・・


「唐人お吉」の物語は、古くから小説や演劇・映画などに取り上げられました。
お吉はこの玉泉寺通いが原因となって、人々のお吉に対する蔑視と嘲笑に耐え切れず、酒に溺れ、世間から孤立し、その後は、幕末、維新の動乱の中、芸妓として流浪(るろう)の果てに下田にもどり、鶴松と暮らし髪結業を始めたが、ほどなく離別。



さらに小料理屋「安直楼」(あんちょくろう)を開業したが、2年後に廃業。「唐人」という相も変わらぬ世間の罵声と嘲笑をあびながら貧困の中に身をもちくずし、1891(明治24)年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶った。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕は多くの人の涙を誘います。



でも、お吉さんは自分の人生を誰かに委ねて満足するような女性では、無かったという事ね。

どんなにさげすまれても自分の足で必死に立とうとしていた強い女性

彼女を描いている背景がオレンジで 深い孤独と自分に対する悟りを表しているようにも思えました。




どんなに困難でも自分の納得した生き方を貫いた

日本人なんですね。