【コラム3】第3回 国語力とは何か?~国語を学習する意義~

~「ルポ・誰が国語力を殺すのか」(石井光太著)より~

2022年に発刊された石井光太著の「ルポ・誰が国語力を殺すのか」

この1冊で現在直面している「国語問題」というものを知り、そしてその解決の糸口を探ることが出来ることができる1冊ではないかと思われます。

 

今回は複数回にわたりこちらの著書を踏まえ、小生が長年国語教育で経験してきた出来事や考察を踏まえながらお話していきたいと思います。

 

こちらの【コラム3】にてある程度の「国語力の回復」につながる提案をさせて頂きたいと思いますので、是非最後までお付き合い頂きたく存じ上げます。

 

 

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【コラム3】第3回  国語力とは何か?~国語を学習する意義~

「感じる力」と「想像する力」の欠如

文科省の定義による国語力とは、次の4つの中核からなるものだとあれている。

 

①「考える力」

②「感じる力」

③「想像する力」

④「表す力」

 

まずは乳幼児期から語彙を得ることで育んでいくのが「情緒力」と「想像力」、すなわち②「感じる力」と③「想像する力」である。

 

この「情緒力」と「創造力」によって、他人の立場に立って状況を読み取るなど、当事者意識をもって考える。そのためには言葉を巧みに使い分け、自分だけでなく他者の感情を想見する力が不可欠(同著22-23頁)だとされている。

 

しかしこの「語彙力」がないためにずべての情緒を「ヤバい」で片付けてしまう。

 

この「稚拙な語彙力」(=全て「ヤバい」で片付けてしまう語彙力)「感情をグラデーション化」(同著22頁)させることなく、結果として自分の感情や相手の心の機微を知覚することが出来なくなってしまうのではなかろうか。

 


小説問題が出来ないのは、この「感じる力」と「想像する力」の欠如

「感情をグラデーション化」結果として自分の感情や相手の心の機微を知覚することにつながってくることを考えると、このような②「感じる力」と③「想像する力」の欠如はそのまま「小説問題」に影響を与えることは当然であろう。

 

同著著者の石井光太氏は「感情をグラデーション化」と表現したが、稚拙な語彙力は「感情をグラデーション化」させることが出来ず、数少ない語彙力でしか物事を把握することが出来ない。

これが「語彙力の欠如」による「小説問題」の心情把握の不出来であり、記述問題で何を書いたらいいか分からない現象の根源であるように思える。

 

すなわち、コトバ(=語彙)は他人の立場に立って状況を読み取るなど、当事者意識をもって考える働きを持つものであるゆえに、「語彙力の欠如」は言葉を巧みに使い分け、自分だけでなく他者の感情を想見する力の欠如とつながってくる。

 

普段の生活から全ての感情や想像を「ヤバい」などのわずかな語彙でしか表現できないのであれば、「生活のグラデーション化」することなく、スマホとゲームに時間を浪費する漫然な生き方、人生に陥ってしまうのはないでしょうか。

 

 

論理的思考能力=国語力

同著著者の石井光太氏は、「論理的思考能力」を「多様な価値観から発せられる相手の主張や文脈の中で理解し、自分の意見を筋道を立てて構築していく」ものだと定義づけている。そして「その能力をつけて初めて社会という集団で生きて行ける」としている。
 
この「論理的思考能力」は、4つの中核の①「考える力」をなすものであり、成長段階においては②「感じる力」や③「想像する力」の養成後の、具体的には中学生あたりから身に付いてくるものである。
 
一般に「国語」の試験でおいては、この「論理的思考能力」を試す試験の構造となっているが、この能力もやはり根底にあるのは「語彙力」である。
 
コトバ(=語彙)によって考える。至極当たり前のことだが、「人間はコトバでしか物事を思考することが出来ない」
よって「語彙力」に比例して「論理的思考能力」も身に付いてくるものである。
 
しかし「語彙力の欠如」による「小説問題」の心情把握の不出来同様、この「語彙力の欠如」が「国語」そのものの不出来に直接つながっているのは言うまでもない。
それよりも、普段の生活の中で「コトバによる思考」を回避し、スマホとゲームに時間を浪費する漫然な生き方そのものが「思考停止」の大きな要因となっているのではないだろか。
 
 

論理的思考能力は「因果律」を考えるだけで成長する

では、「論理的思考能力」も身に付けるにはどのようにすれば良いのか。

それは普段の生活から(コトバで)「因果律(原因と結果の関係)」を考えることである。

 

仕事にしても勉強にしてもこの「因果律」を理解することが物事の理解へとつながり、ひいては「論理的に思考する能力」へとつながってくる

 

例えば、「〇〇しなければならない」という指示も、「〇〇」という結果のみだと頭の中に定着はしないが、「△△だから(原因)、〇〇しなければならない(結果)」という「因果律」で考えることで、その行動の意義が明確化し、メモを取らずとも頭の中に定着させていくことが出来る。

 

そして何よりもこの「因果律」には飛躍があってはならないことだ。

 

例えば、「早稲田大学に合格したい(結果)」、しかし「自分の偏差値は40台である(原因)」。

この因果律では飛躍になってしまう。だから往々にしてこの「因果の飛躍」のために実力不相応の志望校に〝夢〟を委託するのである。

(勉強が出来ない子=思考力がない子ほど無理難題な志望校を第1志望とする傾向がある)

 

しかし

「自分の偏差値は40台である(原因)」⇒「そこで〇〇をしなければならない(その判断は適切か否か)」⇒「結果早稲田大学に合格への可能性を開くことが出来る」

と、因果律で物事を考えることでより現実的で、より成功の可能性が開けてくる。これこそが「論理的思考能力」を兼ね備えた人の思考であり生き方である。

 

 

国語力は社会の荒波に向かって漕ぎ出す「心の船」

話は戻り、同著著者の石井光太氏は次のように警鐘を鳴らしてる。

 

 

    

文科省が国語力を高めることがより良く生きる力を育むとしているのは、将来的にそれが全人的な力となるからだ。

(中略)

今の学校の教育や社会のあり方が(中略)もし適切に機能していなければ、子供たちは生きて行くのに必要な力を得られないまま成長していっていることになる。

(同著23-24頁)

 

「コトバの喪失」「語彙力の欠如」は、

自分の感情や相手の心の機微を知覚する②「感じる力」や③「想像する力」の欠如であり、

因果律で考える①「考える力(論理的思考能力)」の欠如であり、

それは社会への適応できず簡単にドロップアウトする、他者との信頼関係が築けことができず孤立する(同著24頁)ヒトの生産に他ならない。

そして「自分がうまくいかないのは社会のせいだと被害妄想を膨らませる」(同著24頁)

 

 

同著著者の石井光太氏は次のように言う。

 

 

    

私が思うに国語力とは、社会という荒波に向かって漕ぎだすのに必要な「心の船」だ。

 

語彙という名の燃料によって、情緒力、想像力、論理的思考能力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ大海を渡ることができる。

(同著24頁)

 

6 次回は…… 

次回のコラムではその「言葉のカースト」とスマホ依存についてお話させて頂きたいと思います。

引き続きお付き合い頂きますと幸いです。

 

最後までありがとうございました。
次回もよろしくお願いします。  

 

 

 

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