甘えるということ | エリーのラヴ・ラボラトリー

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恋人やパートナーに自分の感情をぶつける。
傍で見てると、すごい甘えだなぁといつも思っていました。

そんな相手がいる事が少しだけ羨ましく思う反面
私にはちょっと出来そうもないなぁと思ってました。

誰彼構わず自分の感情をぶつけるのは
単なるわがままや自己中なんでしょうけれど
特定の相手にだけ、それが出来るというのは
相手がそれを受け止めてくれると信じているからだし
その人へ心を開いてるからだと思います。

これはちょうど親子関係にも似てますが
私が思うに、つまりそこには
目には見えない強い絆が存在してるのだと思います。

もしそうじゃなければ、
その相手を失う事が怖くて出来ないでしょう。
言いたい事をはっきり言えない。
嫌われたくないから言えずに我慢してしまう。
かつての私も、まさにそうでした。

でも、もし自分が逆の立場なら?

不満があるのにため込まれてしまったり
嫌われないようにと不自然な気を使われていたり
挙げ句、ロクな理由も告げられずに離れて行かれたら?

おそらく私は
「言いたい事があるならきちんと言って欲しい」
と、相手に詰め寄ると思います。

だとしたら
自分も言いたい事は言うべきだと思うけれど
それでも言わないのは
情を突き動かされる相手ではないと
たぶんどこかでわかってるからだと思います。

感情をぶつけるのもそこに情があるからこそ。
友情、愛情、恋情、同情、そして憐憫の情もありますね。
もしそこに何かしらの情がなければ
人は突き動かされるような行動は取りません。

もちろん、そんな明確に分類出来る情ではなくとも
「こうしたい」と沸き起こる感情も情のうち。
特に大きな理由もなく何かを「こうしたい」と思えた時
そこには情が芽生え始めるのだと思います。

そして、その情による行動が相手に受け入れられたとき
そこに見えない絆が生まれ、心が満たされ幸せな気持ちになり
その経験がさらなる情へと駆り立てて
その絆をより強く固いものへと育てていくものなのだと
最近、ようやく気づきました。

学生時代、好きな人がいても
付き合いたいという感覚とはちょっと違うと思っていたことがあって
その理由がずっとわからずにいましたが
たぶんこのことを、なんとなく感覚でわかっていたんだと思います。

ちょっかいを出したくなる相手というのも
まさに、理由はわからずとも情に突き動かされる行動なわけです。

ほっとけない相手、絡みたい相手、もっと仲良くなりたいと思う相手
そう感じた瞬間から、なんらかの情が芽生えるのだと思います。

よく、知らない間に徐々に仲良くなって
気がついたら好きになっていたという話も聞きますが
これは相手が先に情が芽生えただけに思えます。

つまり、少し強引な言い方をしてしまえば
人はおそらく、ファーストコンタクトの段階で
その相手に情が芽生えるかどうかを見極められるのだと思います。

少なくとも私の場合は
過去の友情や愛情を振り返って考えて見ると
第一印象でその人に対しざわめくような心の動きがあるかないか?
そこがキーポイントになっていたように思います。

しかし、仮に異性に心がざわめき情が芽生えても
その後も情が芽生え続けたとしても
それを自分の中だけで終わらせてしまったら
相手には届かないので絆が生まれるわけがありませんし
もしその情に突き動かされて行動してみても
相手がきちんと受け止めてくれなければ
やはりそこに、絆がうまれるはずもありません。

絆の有無やその強さは、見えなくても感触でわかるからこそ
そう容易く、自分の感情をぶつけることはなかったなぁと
ふと振り返ってみると、今更ながらそう感じます。

相手を受け止めることには慣れていても
自分の心を開き、情をうまく表に出せない・・・
もしくは、突き動かされる情そのものがなかったのかもしれません。
だからこそ絆はいつまでも浅く、弱く、脆いままだったので
相手に甘えるという行為を出来ずにいたのかもしれません。

こんな話をしても、人によっては
「そんな難しく考えないでも」というかもしれません。
もちろんこういう感覚は人それぞれです。

甘えさせてくれる人なら誰にでも甘えられる人もいますし
誰の甘えでも優しくすんなり受け止められる人もいますが
誰でもいいような相手と、本当の絆が結べるとは到底思えません。

そんなギブアンドテイクでドライな関係には
全くといっていいほど興味がない私は
自分の感覚を信じて、本物の強い絆が手に入るまでは・・と
妥協しないで生きてきた結果、現在に至ったんだろうなぁと思います。

「甘さ」は人がこの世に生まれ落ちた時から本能的に求める味。
「甘える」ということもまた、本能が求めるもののような気がします。