『独眼竜政宗』第40回「大船造り」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

今回は大久保長安事件に巻き込まれた政宗と松平忠輝が描かれました。
二人とも身から出た錆なんですが、愛姫と五郎八姫はいい面の皮です。

慶長十八年、大御所徳川家康は江戸へ下り、早春の葛飾で鷹狩りを楽しみました。

徳川家康「んぁ、船はもう懲りた」
政宗「されど南蛮紅毛との通商交易には大船の建造が何より肝要かと存じまする」
家康「それをしくじったのだ」
徳川秀忠「政宗は伊達藩に於いて建造致したいと申しております」
家康「ぉ?仙台で造るのか?」
政宗「御意にござりまする。幕府のご差配のもとに我らが建造致しますればたとえ失敗に終わってもご威信に関わることはござりませぬ」
家康「存分に致すがよかろう」
政宗「はは、決して南蛮に劣らぬ船を造りご上覧に供しまする」
秀忠「…」
家康「間に合えばよいがの」
政宗「は?」
家康「島津義久が死に、浅野長政も加藤清正も死んだ。わしもそう長くはあるまい」
政宗「…」
土井利勝「ははは、滅相もござりませぬ」
水野忠元「大御所様はことのほかご長命の相とお見受け致しました。お肌の色つやが何よりの証しにござりまする」
家康「はは、追従を申すな」
忠元「相違ござりませぬ」
家康「わしが死ぬるのを心待ちにしている者もいようぞ」
柳生宗矩「ここにはおりますまい(ジロッ)」
政宗「…」
家康「伊達の少将はどうじゃ?」
政宗「!お戯れを。はははは」
秀忠「御身お大切にあそばされませ。父上にはまだまだ大仕事がござりまする」
家康「そうじゃのう。ぐずぐずしてはおれぬ」
政宗「大坂の始末にござりまするか」
家康「それもある。だが、それだけではない」
政宗「は?」
家康「大久保長安の屋敷から怪しき連判状が出てきてのぅ」
政宗「…」
家康「筆頭に豊臣秀頼、続いて松平忠輝、大久保忠隣の署名と花押が連ねてあった」
宗矩「いずれも吉利支丹にご執心のお歴々にござりまする」
政宗「して、連判状の趣旨は」
利勝「ほう、伊達殿はご存知ないと仰せられるか」
政宗「存じておらん」
利勝「ぉ、これはご無礼仕った、ははは」
秀忠「趣旨の儀は厳しく吟味致さねばならぬ。豊臣秀頼は別儀として肝心の長安は乱心して行方を眩ました。残るは忠輝と忠隣じゃ」
家康「やっ、かいな、事になったのぅ」
政宗「…」


三月末、長安は倉屋敷の座敷牢で見るも無惨な死を遂げます。
五月半ば、関東代官と江戸町奉行は八王子の大久保長安屋敷に踏み込んで、強制捜査を行いました。

伊達屋敷

片倉小十郎「手入れの口実は金山奉行としての不正。即ち掘り出した黄金の隠匿にござりまする」
政宗「露見致したのか」
小十郎「はい。長安殿の妻子は申すまでもなく手代の主だった者まで全て召し取られました」
政宗「容易ならざる仕儀じゃ」
小十郎「そればかりではござりませぬ」
政宗「ん?」
小十郎「屋敷の床下に隠してあった石櫃の中からは異国の王がしたためたる書状などが見つかりました」
政宗「何!」
小十郎「これにて由々しき陰謀が明らかになったと取り沙汰されておりまする」
政宗「…」
小十郎「吉利支丹を広め南蛮の軍勢を引き入れて幕府を倒し忠輝殿を日本国の王に、長安を関白にと」
政宗「!…」


江戸城

政宗「これは驕り高ぶった大久保長安の一人相撲にござりまする。忠輝殿に逆心などあろうはずはござりませぬ」
秀忠「わしもそう思いたい。だが日頃の荒々しい言動と気性から推察して全く預かり知らぬ事とは申せまい」
政宗「恐れながら、仰せのとおり忠輝殿は激しいご気性にござりまするが、反面慈悲深く越後の領民にはことのほか慕われておりまする。素より将軍家への忠節心も人後に落ちる事なく大御所にも孝養を尽くされておりまする」
忠元「然らばお訊ね申す。連判状に名を連ねたるは如何なるご所存にござりましょうか」
政宗「あれは吉利支丹の入信書じゃ。幾度も言上致したではないか」
利勝「いささか腑に落ちぬ儀もござる」
政宗「無礼を申すな!忠輝殿は正室を江戸へ差し出しておる。これが何よりの潔白の証しじゃ」
秀忠「政宗」
政宗「は」
秀忠「そちは若年のみぎり弟を手打ちに致したと聞く」
政宗「御意にござりまする」
秀忠「何のために殺したのだ」
政宗「伊達家存亡の危機を脱し後顧の憂いを断つためにござりまする」
秀忠「辛かったであろうの」
政宗「申し上げるまでもござりませぬ」
秀忠「わしとて同じこと。血を分けた弟を死なせとうはない。さりながら忠輝だけを助けては公儀の面目が立たぬ」
政宗「ご舎弟は無実でござる」
秀忠「たとえ無実であっても、家臣の陰謀を見逃した罪は避けられぬ!」
政宗「…ならば将軍家も罪は免れませぬぞ」
利勝「!伊達殿、お控えなされ」
政宗「黙らっしゃい!事もあろうに大久保長安なる大悪人を忠輝殿の付家老に命じたのは、どこのどなたでござろうか!」
秀忠「…」


まるで若き日の自分を助けるような気分だったでしょう。

※大久保長安事件(おおくぼながやすじけん)は、慶長18年(1613年)4月に起こった江戸時代初期の疑獄事件。江戸幕府成立後、幕府内部では大久保忠隣とその与力といえる大久保長安を中心とした武断派と、本多正信・本多正純を中心とした文治派が互いに派閥を形成し、幕府内部における権力をめぐって激しく闘争していた。忠隣は家康の青年期から仕えた武将で、徳川四天王に劣らぬ武功を挙げた人物であり、正信は家康の側近としてその知略において幕府創設に貢献した人物である。忠隣には長安や本多忠勝などの正信にかねてから反感を抱いていた武断派が与し、正信には正純や土井利勝、酒井忠世といった徳川氏の家老的存在が与していた。慶長17年(1612年)、岡本大八事件が起こり本多正純一派は一時その勢力が衰退し、大久保派が優位に立つこととなった。翌慶長18年(1613年)4月25日、全国各地の鉱山奉行を務めていた大久保長安が駿府屋敷にて中風のために死去した。享年69。本多正信・正純親子は、政敵である大久保長安の死に乗じて勢力の巻き返しを謀り、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行った。家康は激怒し、長安が生前に収賄を犯していたという罪で、長安の腹心が逮捕された。さらに、長安は松平忠輝の付家老でその忠輝の岳父が伊達政宗であったという経緯から長安と政宗は親しい関係にあったが、本多親子は長安が政宗の力を背景にして謀反を企んでいたと訴えた。また、縁戚関係にある諸大名を糾合して謀反を起こそうと企んでいたと讒訴した。さらに長安の屋敷からは多数の金銀が発見されたが本多親子はこれを横領と決めつけ、かくして長安は「奸賊」となってしまった。長安の遺族は5月17日、家康の命令で逮捕され、松平定行や忠隣らに預けられることとなった。7月9日には埋葬されていた長安の遺体が掘り起こされ、かつて岡本大八が処刑されたのと同じく安倍川河原で磔に処された。同日、大久保長安の7人の男児と腹心は処刑となる。その後も粛清は続いた。その他にも、長安と深い関係にあった伊達政宗や池田輝政らであるが、政宗と加藤嘉明は無罪となった。これは家康が、彼らが謀反を起こした場合を恐れたためと言われている。(Wikipediaより)