『独眼竜政宗』第36回「天下分け目」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

関ヶ原の合戦前夜。
『葵 徳川三代』では上杉景勝や西軍の毛利輝元に小西行長そして吉川、島津らの動きが詳細に描かれましたが『独眼竜政宗』では全て省略。
そんな中、名前だけで存在感を示すのが直江兼続です。

大坂城

政宗「内府様にはご機嫌麗しく恐悦至極に存じまする」
徳川家康「もはや上杉景勝を謀反と見なし合戦に及ばねばならぬ。ついては伊達殿、最上殿には先陣をお引き受け願いたい」
政宗「しかと心得ました」
最上義光「有り難き幸せに存じまする」
柳生宗矩「恐れながら、取り急ぎ国許へ引き揚げ兵馬をお整え下さいませ。追って佐竹殿、南部殿も加勢に向かいまする」
政宗「ご加勢はご無用。我らにお任せ願いたい」
家康「いや、上杉は手強い。なかんずく米沢城に陣取る直江兼続は音に聞こえた名将にして戦上手。ゆめゆめご油断召さるなよ」
義光「ご配慮痛み入りまする」
家康「わしもな、遠からず江戸へ出立を致す所存じゃ」
政宗「江戸へご出立?」
家康「おぬしらは北から、わしは南から上杉を攻める」
義光「お待ち下さりませ。徳川殿が江戸へ下れば京大坂は手薄と相なりまする。淀殿は大いに喜びもっけの幸いとばかりに石田三成をはじめ毛利、島津、長曽我部ら西の諸将を招き寄せましょう」
家康「百も承知じゃ」
政宗「万一西側の諸大名が挙兵に及べば徳川殿の背後は危うくなります」
家康「挙兵が先か上杉討伐が先か。両名ともここを正念場と心得よ」
義光「はは」
政宗「はは」


三成が挙兵すれば勝算有りとは言え、ここは一世一代の大勝負。
家康とて決して楽勝だと思っていたわけではありません。

…って、あったりまえですよねそんなこと。
何時から大河ドラマで未来人が幅を利かすようになったのでしょう?
今年はとくに酷いようですが。

北ノ目城

政宗「皆の者大儀であった。岩出山は上杉討伐にあたって地の利必ずしも芳しからず。よって当北ノ目城を本陣とする。左様心得よ」
一同「ははっ」
片倉小十郎「これなる客人は徳川殿より目附役として遣わされた今井宗薫殿でござる」
今井宗薫「今井宗薫と申します。お見知りおき願いとう存じまする」
一同「(礼)」
国分盛重「(ボソボソ)目附役というのは合点がいかぬの。徳川殿は伊達家を信用しておらんと見えるな」
鈴木重信「お控えなされませ。宗薫殿は天下に隠れなき茶の名人にござりまするぞ」
盛重「茶人に戦がわかるのか?」
政宗「黙れ盛重。徳川殿の御名代に粗略な物言いは無礼であろう」
盛重「…」


名将揃いの伊達家中にあって小物役を一手に引き受けている感のあるイッセー盛重は貴重な存在です。
それが今年の戦国武将は小物ばかり。おかげで主人公までチョロく見えます。

矢代兵衛「矢代兵衛にござります」

成実の妻子を自刃に追いやった岩出山城代をも、決して権威をかさに着た小物扱いしません。

政宗「おぉ、近う寄れ」
兵衛「はは。…お久しゅうござります。殿にはご機嫌麗しく」
盛重「殿の御前にて詫びと申し開きを致せ。角田城受け取りのみぎり、なぜ成実の妻子を殺した!」
兵衛「それは、籠城の者どもが上意に従わず」
盛重「己れの身分を何と心得る!」


盛重は小物とはいえちゃんと皆が言いたいことを代弁してくれます。
やはり貴重な存在です。

政宗「その儀は今さら詮議に及ばず」
盛重「は?」
政宗「定宗」
亘理定宗「は」
政宗「その方、姉である登勢を殺されながら兵衛を赦すと申したのだな」
定宗「御意にございます」
兵衛「…」
政宗「よいか、家中にいざこざがあっては戦には勝てん。定宗、兵衛に盃を遣わして仲直りをせい」
定宗「承知致しました」
兵衛「有り難き幸せに存じ奉ります」


やや無理矢理な気はしますが、顛末をしっかり描いて視聴者を得心させる。
本当に行き届いた大河ドラマです。

さて、

久しぶりの合戦シーン。
上杉勢が立て籠る白石城攻防の戦場です。

留守政景「確かに上杉勢は手強い。心して掛からねば大変な事態になりまするぞ」
政宗「…四番手押し出せ」
綱元「四番手押し出せ!」
政宗「五番手右へ回れ」
綱元「五番手右へ回れ!」
政景「盛重、右じゃ右じゃ!」


名前だけで国分勢のあたふた振りが目に見えるようです。

そんな劣勢の伊達勢の前に、一陣の旋風が吹き抜けました。

重信「亘理勢が城へ取りつき申した」
政宗「鉄砲三番隊前へ」
綱元「鉄砲三番隊前へ!…!あの騎馬武者は」

綱元「丘の上からただ一騎敵中に斬り込みました」
政宗「誰だ?あの騎馬は」
重信「竹に雀の馬印にござりまする」
政宗「!…成実」


待ちに待った伊達成実のカムバックです。

伊達成実「我こそは伊達藤五郎成実なり!見参見参!」

綱元「成実殿でござる」
重信「見事な戦いぶりじゃ」
政景「とうとう帰参致したか」
政宗「全軍一気に押し出せ!成実を殺してはならんぞ!」
全軍「おー!」


勇気百倍の政宗と伊達勢、一気に形勢逆転です。

その夜、政宗の陣所

成実「…ご尊顔を拝し…恐悦至極」
政宗「久しぶりだな」
小十郎「よう戻られました」
重信「陣中は沸き返っておりまする」
成実「戦と聞いて駆けつけて参ったのだ。殿も、成実をお待ちであろうと」
政宗「たった一人の援軍、大儀であった」
成実「泰平の御代は去り再び乱世と相なりましたからにはこの成実もお役に立ちましょう。何卒帰参の儀ご承認願いたい」
政宗「是非もない。綱元、酒を持て」
綱元「心得ました」
成実「有り難き幸せにござりまする。数々のご無礼、平にご容赦のほどを」
政宗「詫びるのはこちらだ。角田城受け渡しのみぎり登勢と二人の子を殺めたのは俺の不徳の致すところだ。赦してもらいたい」
成実「その儀はきれいさっぱり忘れ申した。さればこの成実には元々妻も子もござらん。それで、よいではないか」
政宗「…すまん」
小十郎「…」
成実「…綱元ぉ!酒はどうした!」
綱元「は、これに」
重信「おめでとうございます」
小十郎「いやはや、二年ぶりに心が晴れました。成実殿は上杉殿に召し抱えられたのではないかと」
成実「実は五万石を棒に振った」
小十郎「五万石?」
成実「上杉から誘いがかかったのだ」
綱元「やはり噂は真でございましたか」
成実「ははは、断ってよかった。危うく殿に弓矢を向けるところであった」
政宗「はははは」
重信「恐れながら、成実殿の処遇にござりまするが」
政宗「ん」
重信「城も持たず家臣もないご身分では武将としての面目が立ちません」
成実「面目などどうでもよい」
政宗「いや、望みがあれば遠慮なく申せ」
成実「…然らば、成実を石川昭光殿の配下にお加え願いとう存ずる」
政宗「昭光の?」
成実「成実も牢人暮らしで些か大人になり申した」
小十郎「…」
綱元「…」
政宗「…成実」
成実「は」
政宗「そなたは政宗の片腕じゃ。たとえ仲違いしても二度と出奔は許さん」
成実「心得ました。その代わり殿も初心を貫いていただきたい」
政宗「初心?」
成実「よもやお忘れではございますまいな。いつの日か天下を獲ると仰せられたではないか」


政宗は無言で右の拳を突き出します。
成実も無言で政宗の拳に己れの右掌を重ねます。

成実「小十郎、綱元、重信」

皆が掌を重ね、ここに同志の盟約が完成しました。

そして、遂に三成が挙兵しました。

白石城

政景「徳川殿が引き揚げた?」
小十郎「石田三成の挙兵に応ずべく西へ軍勢を向けたのでござります」
石川昭光「我らを見殺しに致す所存か」
小十郎「されば上杉勢は結城秀康殿、最上殿そして伊達勢において抑え込むべしとの御沙汰にございまする」
重信「それは危ない」
綱元「最上はあてにならん」
重信「一向に動く気配がございませぬ」
綱元「万一最上が寝返れば我らは孤立無縁でござる」
成実「恐れながら、ひとまず上杉と和睦なされませ」
政宗「何?」
重信「徳川殿を見限るのでございますか」
成実「進んで上杉と争えば愛殿をはじめ伏見の面々が危ない」
政宗「…」
成実「いずれにせよ、家康が勝つか三成が勝つか、ここはじっくり模様を見るに及くはない。世は再び乱れ群雄割拠となれば天下をうかがう隙もございましょう。伊達政宗ほどの者が家康にむざむざ利用されてはなりませぬ」
政宗「…小十郎、江戸へ早馬を出せ。上杉との和睦を仄めかし家康の心胆を寒からしめるのだ」
成実「流石は我が殿じゃ」
小十郎「(納得)…」


江戸城

家康「政宗め、足元を見てわしを脅すつもりじゃ。ふふふ」
宗矩「如何いたしましょう」
家康「放っておけ。上杉を奥州に釘付けにすればそれで十分じゃ。無理に戦って敗れ去っては何にもならん」
宗矩「伊達が逆心に及び上杉に着いては一大事かと存じまする」
家康「飴を舐めさせればよい」
宗矩「飴と申しますと?」
家康「政宗が欲しがるものは何か、よう考えてみい」
宗矩「…!」
家康「…」


白石城

小十郎「吉報でございまするか」
政宗「家康は伊達の本領七箇所を返還すると約束してきた」
綱元「本領七箇所」
小十郎「お墨付きの判物じゃ。苅田、伊達、信夫、二本松、四本松、田村、長井。併せて四十九万五千八百石」
綱元「してやったり」
政宗「南無八幡大菩薩。これで祖先墳墓の地を奪回できる」
小十郎「驚くなかれこれに我が方の所領五十八万石を加えると優に百万石は越えまするぞ」
政宗「百万石か」
成実「けちな徳川殿にしては大した奮発だな」
綱元「おめでとうござりまする」
成実「いや慌てるな綱元。徳川殿が勝てばよし、負ければこのお墨付きは空証文じゃ」
綱元「何が何でも上杉を討たねば」
小十郎「しかし上杉とは和睦致した」
成実「動きを封じればよいのだ。そう難しい事ではない」
政宗「成実の申す通りじゃ。この好機を逃してはならん。…面白うなって来たぞ」


政宗の決断は最上に思わぬ結果をもたらしました。
伊達と和睦を結んだ上杉景勝の腹心、直江兼続が軍勢を率い米沢と庄内から最上領になだれ込んだのです。
山形城は落城寸前となり、窮地に陥った義光の子義康は保春院の書状を携えて政宗を訪ねます。
政宗は山形への援軍を命じ、再び上杉勢と相対することとなるのでした。

 

※慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)は、慶長5年(1600年)出羽国で行なわれた上杉景勝(西軍)と最上義光・伊達政宗(東軍)の戦いで、「北の関ヶ原」といわれる。東軍が勝利した。

豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)6月に会津征伐のため出陣していた徳川家康が、7月24日下野小山において石田三成の挙兵を知って反転西上する。家康は南部利直・秋田実季・戸沢政盛・本堂氏・六郷氏・赤尾津氏・滝沢氏などを山形に集結させ、最上義光を主将として米沢口から会津に侵入するようにしていたという。しかし、東軍諸将を先遣隊として東海道より西へ軍を進め、自身は江戸において東軍諸将の引き留めおよび西軍の切り崩し工作を行ったため、奥羽諸軍は自領に引き上げ、伊達氏と上杉氏も伊達氏が7月に攻略した白石城の返還を約し、和睦を結んでしまう。事態の急変に対し、義光は帰国をする南部氏や出羽の諸氏と起請文を交わし、家康の意向に従うこと、事があらば助け合うことを誓った。ただし、米沢口の主将であった義光は出羽方面における軍事指揮権は引き続き自分が持っていると解したのに対し、諸大名はあくまでも家康の指揮命令によって戦うと理解していた。9月1日、岐阜城落城の知らせを受けて、家康が江戸より出陣する。また、徳川秀忠および最上義光次男最上家親も上田方面に出陣する。これにより上杉氏に対する家康の脅威は去り、上杉領北方において上杉と対決する姿勢を示すのは義光だけとなり、上杉景勝は義光を無力化しようとする。最上氏を滅ぼすか味方に付ければ上杉氏にとっては後顧の憂いが無くなり、家康と決戦に挑めるからである。逆に家康の反転により、上杉氏の北方に孤立した形になった義光は窮状に陥り、上杉方に嫡子を人質として送るなどの条件で山形へ出兵しないように要請している(『上杉家記』)。しかし、義光が秋田実季(東軍)と結び、上杉領庄内を挟み討ちにしようとする形跡があるのを知った上杉氏は激怒し、出陣を決定する。

慶長5年9月8日、上杉軍は米沢と庄内の二方面から、最上領へ向けて侵攻を開始した。上杉勢の指揮を執る将は景勝の重臣直江兼続で、総兵力は2万5000人にも及んだ。米沢を出た上杉軍は萩野中山口(狐越街道)、小滝口、大瀬口(白鷹町大瀬)、栃窪口(白鷹町栃窪)、掛入石仲中山口に分かれそれぞれ進軍した。兼続は萩野中山口を進んだ。それに対して最上軍の総兵力はおよそ7000人にすぎず、しかも居城の山形城をはじめ、畑谷城や長谷堂城など多くの属城にも兵力を分散していたため、山形城には4000人ほどの兵力しかなかった。(ただし両軍の正確の兵数は不明)上杉軍は、9月12日に畑谷城を包囲する。この城は、最上軍の白鷹方面最前線基地であるが、城将は江口光清以下500人ほどに過ぎなかった。義光は江口に撤退を命令していたが、江口以下、城兵は命令を無視し玉砕を覚悟で抵抗する。この時の事を、『最上義光物語』では、「東西南北に入違ひもみ合。死を一挙にあらそひ。おめき叫て戦ひければ、さしも勇み進んたる寄手も。此いきほひに難叶。持楯かい楯打捨て。一度にとつと引たりける」と、城兵側による抵抗をつぶさに描いている。しかし、兵力の差はいかんともし難く、畑谷城はその日のうちに落城、江口は敵軍の中に斬り込んで一戦した後、自害して果てた。しかし江口の抵抗は、上杉軍にも1000人近い死傷者を出させた。

9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線上山城に攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は城門を開けて打って出た。上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で戦闘が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した草刈志摩に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を攻める。上杉方は大将の本村親盛が坂弥兵衛なる者に討ち取られた他、椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれた。一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。一方、庄内飽海方面では最上方の支援を受けて朝日山城に復帰した池田盛周等が一揆を起こし、酒田東禅寺城主志駄義秀と対峙したものの、上杉軍を前に一揆勢は敗退し、志駄義秀は最上川を遡る軍で、下秀久は六十里越を通る軍で村山郡の最上川西岸地域に侵入した。9月15日までに寒河江城・白岩城が、9月18日までに谷地城・長崎城・山野辺城などが落城した(『上杉家御年譜』『九月十八日上泉泰綱書状』)。また、直江兼続本隊の別動隊が白鷹方面から五百川渓谷沿いに進軍し、八沼城・鳥屋ヵ森城などを落として左沢まで進出した後山野辺で本隊と合流している。各地で最上勢は地の利を生かしたが、兵力の差は大きくしだいに押し込まれていった。さらに上杉景勝に呼応して、最上義光と対立していた小野寺義道も、最上氏の属城である湯沢城(出羽国雄勝郡)を包囲攻撃し始めた。しかし、この戦いにおいて城将の楯岡満茂が善戦し、小野寺軍の侵攻は遅滞した。

一方、直江兼続は畑谷城を落としたあと、長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る、最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取りかかることは明らかだった。9月15日最上義光は嫡男最上義康を当時北目城(仙台市太白区)にいた伊達政宗に派遣し援軍を依頼した。伊達氏の重臣片倉景綱は両家を争わせて疲弊させるべきであるとして諌めたのに対し、政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上(義姫・保春院)のために最上を見捨てるわけにはいかない」(『治家記録』)[注釈 3]と述べ、16日付書状にて政宗は叔父留守政景を救援に派遣することを決める。

この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備し、攻め手は直江兼続が指揮を執る上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は寡兵ながらも防戦し、9月16日には200名の決死隊と共に上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。この時の鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたという。

9月17日、兼続は春日元忠に命じ、さらに城を攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ちつけた。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。9月21日には、伊達政宗が派遣した留守政景隊3千の軍勢が白石から笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東の須川河岸の沼木に布陣する。また、最上義光も9月25日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて一時戦況は膠着するものの、9月29日上杉勢は総攻撃を敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。

そしてこの29日に、関ヶ原において石田三成が指揮を執る西軍が、徳川家康が指揮を執る東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、前田利益(慶次郎)に諫められ、撤退を決断したとされる。翌9月30日、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転する。10月1日、上杉軍が撤退を開始、最上伊達連合軍が追撃した。富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど激戦となり、両軍多くの死傷者を出した。追撃軍を迎え撃つため、直江兼続は自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめ、10月3日に荒砥へ退却した。前田利益や水原親憲などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、10月4日に米沢城へ帰還した。『最上義光記』には「直江は近習ばかりにて少も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し。追い乱れたる味方の勢を右往左往にまくり立て、数多討ち取り、この勢に辟易してそれらを追い引き返しければ、直江も虎口を逃れ、敗軍集めて、心静かに帰陣しけり」とある。この撤退戦は後世まで語り草になった。最上義光は兼続を「上方にて敗軍の由告げ来りけれども、直江少しも臆せず、心静かに陣払いの様子、(中略)誠に景虎武勇の強き事にて、残りたりと、斜ならず感じ給う」と評し、家康も兼続が駿府を訪れた時「あっぱれ汝は聞き及びしよりいや増しの武功の者」とおおいに賞賛したという。また、最上勢は全戦線で反攻に転じ、10月1日には寒河江・白岩・左沢を回復すると、撤退から取り残された谷地城に籠る下秀久も11日間の籠城の末に降伏した。最上軍は降伏した下秀久を先手、義光の嫡男・義康を総大将として庄内地方に進攻すると、尾浦城を攻め落とした。翌慶長6年(1601年)3月、酒田東禅寺城を攻略し、十五里ヶ原の戦いおよび奥州仕置で失った庄内地方全域を上杉氏から奪還した。

この戦いは、「奥羽における東西合戦」と言える。最上軍は少ないながらも善戦したことにより、戦後家康はその功績を賞賛し、義光が切り取った庄内地方の領有権を認めるとともに、佐竹氏との領土交換により雄勝郡・平鹿郡に替えて由利郡を与え、出羽山形藩は57万石の大藩となった。また、慶長6年(1601年)5月11日に家康が参内した際には上田城の戦いの功労者である森忠政、関ヶ原の戦い本戦の功労者である井伊直政、織田長益に並んで、義光が供奉者に選ばれている(『言経卿記』)。伊達政宗は直江兼続が最上義光に敗退し米沢へ撤退すると、これを好機と捉え上杉領の伊達郡・信夫郡に進攻し、福島城主本庄繁長と梁川城主須田長義と戦う。野戦においては上杉軍を蹴散らした政宗であったが、続く福島城での攻城戦では上杉方の固い守りに阻まれ攻略に失敗してしまう。加えて戦後、南部領で一揆を扇動したことが露見し、家康の不信を招いたことによって、いわゆる「百万石のお墨付き」は反故にされ、自力で落とした白石城・刈田郡2万石をそのまま追認されたに過ぎなかった。敗れた上杉景勝は庄内、会津などを没収され、米沢30万石のみを許された。

(wikipediaより)