『独眼竜政宗』第13回「人取橋」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

輝宗首塚。
伊達輝宗が畠山義継に拉致され、政宗率いる追撃隊との戦闘の末、義継もろとも討死にしたというのは紛う事なき史実だという事を思い知らされるアバンタイトルでした。

お東「情けなや。大殿にかかる悲運がまたとあろうか。夢であってほしい。夢であらねばならぬ」

輝宗への究極の忠義を示すべく殉死した先鋒は遠藤基信だと思っていましたが、内馬場右衛門でした。
歴史上の人物を端役扱いしないのは嬉しいですね。

このあと伊達家中の悲しみと無念さは日を追って増幅していきます。

愛姫「お疲れでございましょう」
政宗「そうも言うておられぬ」
愛姫「ご出立はいつ」
政宗「明後日になろう。すぐにも発ちたいが弔問を受けねばならん」
愛姫「お体をお愛(いと)い下さいませ」
政宗「うむ。愛にはまた寂しい思いをさせるが、二本松を落とすまでは致し方あるまい。許せ」
愛姫「私は幸せ者でござります。お東様のお心を思うと…どんなにか…」
政宗「それは俺も同じだ」
愛姫「はい」
政宗「だが、武将というものは何時どこでどのように果てるか見当がつかぬもの。一寸先は闇だ。愛も心しておけ」
愛姫「日夜写経に励み、御無事をお祈り致しております」
政宗「有難い事だ」


愛姫の元で気持ちを落ち着けようとする政宗でしたが、周囲はそれを許しません。

お東「政宗殿」
政宗「!はい」
お東「母じゃ。そなたと話がしたい」
政宗「お入り下され」
お東「…寒くなったのぅ」
政宗「お大事になされませ」
お東「…芳しからぬ風聞を耳にしました。敵の虜になった父上を撃てと下知したのは、政宗そなたじゃと。まさかそのような事はありますまいな」
政宗「…誰が申しました」
お東「もっぱらの噂じゃ」
政宗「父上を撃てとは申しておりません」
お東「何と申したのじゃ」
政宗「義継を撃てと」
お東「待ちゃれ!畠山義継殿は父上の胸元に刀を突き付けていたはず」
政宗「いかにも」
お東「ならば同じではないか。義継殿を撃てば父上は刺される。それが解っていながら撃てと言うたなら、そなたは父を殺(あや)めたも同然!」
政宗「結果は確かに仰せの通りでござる。しかしあの場合、むざむざと父上を二本松に拉致されれば我等の敗北は必至。悔いを千載に残しまする」
お東「言い訳は無用じゃ!どうせお命を殺めるならば敵の手に渡してからでも良かったのではないか!」
政宗「父上は、…撃て、撃てと大声で叫ばれました!」
お東「親不孝者!戦に勝つためには父上を殺しても良いと申すのか!」
政宗「義継は恩義ある父上を謀(たばか)ったのでござる!到底生かしては帰せません!」
お東「あぁ…、恐ろしい息子を持ったものじゃ。大殿は草葉の陰で嘆いておられようぞ」


お東のみならず留守居の家臣団からも、顛末に対する糾弾が行われました。
辛い立場の政宗たち。

片倉小十郎は、わが子の誕生を目の前にして、男の子ならばその命を奪おうとする苦渋の決断を下します。
殉死といい、この時の伊達家中の精神状態は、現代の常識に沿えば、集団ヒステリーか何かのように思えるかもしれません。
しかし、そのような武家集団があったことに思いを馳せ、それを敢えて否定せず、むしろ敬うだけの懐の深さを持ちたいと思います。

遠藤基信「思えば長い歳月で…、いや、あっと言う間でございましたなぁ。しがない修験者の小倅を、大殿のご推挙によりここまで取り立てられ、さほどのご恩返しもできませなんだが、もはや大殿亡きあと基信の成すべき所行これなく、遅れ馳せながら十万億土とやらへお供仕りまする。後は小十郎が控えておりますゆえ、御安心下さりませ」

遠藤基信に続き、須田伯耆も殉死を遂げます。
しかし、若い政宗には、死を選ぶ家臣達の心の奥が分かっていなかったようです。
死に様にこだわる老人の心が。

政宗「須田伯耆まで俺を見限るとはな」
虎哉「見限る?」
政宗「なぜ掟を破ってまで死なねばならんのだ。お家の大事を何と心得ておるのか」
虎哉「大殿のお人柄にそれだけ心酔しとったのでござりましょう」
政宗「そうではあるまい。殉死を致せば即ち忠臣と相成る。その子は親の誉れによって重く用いられよう。その目論見が根底にあるのは明らかだ」
虎哉「ははは、それも一つの忠義には相違ござらん」
政宗「笑い事ではない」
虎哉「(茶を飲み)いやぁ、おいしゅうござった」
政宗「頼みがある。国許に戻られたら家臣の殉死を厳しく咎めて頂きたい」
虎哉「生憎だが米沢には戻らん」
政宗「なに?」
虎哉「大殿の菩提を弔いつつ諸国遍歴の旅に出ようと存ずる」
政宗「和尚、そなたまで俺を離れるのか」
虎哉「生者必滅会者定離。時は流れ世は移り変わって行きまする」
政宗「何が不満なのだ。政宗は大将の器に叶わぬと申すのか」
虎哉「いや、それは別義でござる」
政宗「旅立ちは許さん!…父上亡きあと基信を失い和尚にまで去られては、誰を心の支えにすれば良いのだ」
虎哉「自灯明、法灯明。己自身を頼みとされるが良い。殿の周りには若い力が育っておりまする。小十郎然り、成実然り。伊達家は今や政宗殿の御代でござるぞ」
政宗「…」
虎哉「では、さらばじゃ」
政宗「…」
虎哉「何時の日か名君となられた殿の尊顔を拝みに来るのが楽しみでござる。はははははははは、はっははははははははは」


ここで漸く吹っ切れた様子の政宗でした。
なればこそ、人取橋への参戦を求めた左月の心中が理解できたのでしょう。

政宗「左月」
左月「は」
政宗「兜は如何致した」
左月「無用にござりまする。老骨には重さが堪え、耳も聞こえなくなります。ぐはははは」
政宗「(微笑)」


このあと馬に跨がるのも一苦労の左月でしたが、凛々しく金打(きんちょう)し出陣します。

左月「者ども遅れるなー!」
兵「おー!」
左月「かかれー!ここを死に場所と心得よー!」


左月かっこいいよ左月。
鬼庭左月斎良直、天晴れな死に様でした。
世代交代を見事に印象づけました。

左月「…長生きせいよ綱むぉと。あのなぁ、朝夕の膳の湯に飯粒を溶かしてな…」
綱元「承知しておりまする」
左月「あれは長生きの薬じゃ。長生きをして、殿にお仕えを…」
綱元「父上!」
左月「よいかぁ、わしのように…若死にいたすなよ…」


おお、死してなお、我らを笑わせしか、左月。

※人取橋の戦い(ひととりばしのたたかい)は、天正13年11月17日(1586年1月6日)に佐竹氏および蘆名氏らの南奥諸大名の連合軍と伊達氏の戦い。室町幕府の崩壊による奥州探題の権威の喪失や伊達晴宗の死去、天正12年の蘆名盛隆死去後の蘆名家の混迷と家督相続問題、天正13年(1585年)5月の伊達政宗の蘆名攻め(関柴合戦)での敗報、羽柴秀吉の関白就任による朝廷の権威の回復、晴宗の次男伊達輝宗の早急な死による伊達家中の世代交代が重なり、伊達氏の洞(うつろ。家中に同義)が佐竹氏、岩城氏、二階堂氏、蘆名氏、白河氏、石川氏らの洞により取って代わられる機会が生じたことで起きた戦いである。この戦の勝敗については、南奥諸大名を伊達氏の洞の支配下から解放させた連合軍の圧勝であった。ただし、城を攻略する、あるいは伊達軍を壊滅に追い込むには至らなかったため、決定的戦果を挙げたとまでは言えない。南奥羽の政治体制・外交秩序は、伊達氏から佐竹氏を中心とする連合勢にその主導権を奪われたが、この旧来の体制からの脱却と奥羽の覇権を求めた伊達政宗は、二本松城という足がかりを得てさらなる領土拡大を目指し、蘆名領へ武力侵攻を進めた。合戦が行われた福島県本宮市の国道4号線沿いには、戦死した鬼庭左月斎の墓と古戦場跡碑が残る。(Wikipediaより)