『八重の桜』第39回「私たちの子ども」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

10分も経たないうちに視聴をやめました。

初回からここまで見続けたのに
まさかリタイアするとは思いませんでした。

※板垣退助(いたがきたいすけ、天保8年4月17日(1837年5月21日) - 大正8年(1919年)7月16日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。自由民権運動の主導者として知られる。明治14年(1881年)、10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。以後、全国を遊説してまわり、党勢拡大に努めていた明治15年(1882年)4月、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷した(岐阜事件)。「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。しかし、板垣自身が後に「アッと思うばかりで声も出なかった」とも書いており諸説あることがわかる。文章として登場したのは、4月11日の大阪朝日新聞の、板垣は「板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ」と叫んだという記事である。後の報知新聞の取材によると、この「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にしたという。他にも説があり、板垣本人がよく似た言葉を襲撃された際叫んだという。「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より)「吾死スルトモ自由ハ死セン」(政府密偵(岐阜県御嵩警察署員)の上申書より)「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長の報告書より)他にも、実際には土佐弁で叫んだとか、「痛い、医者を呼んでくれ」と言ったとも言われている。明治31年(1898年)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第1次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく)とも呼ばれる。明治33年(1900年)、立憲政友会の創立とともに政界を引退した。好角家としても知られており、国技館の名付け親でもある。第二次世界大戦後は50銭政府紙幣、日本銀行券B100円券に肖像が用いられた。(Wikipediaより)