おんな一代記だけでは大河ドラマではない | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

川崎尚之助が亡くなったのが明治8年3月。
八重と新島襄が婚約したのが明治8年10月。

『八重の桜』では、佐賀の乱をはじめ
明治7年の台湾出兵および、それに伴う木戸孝允の下野と
明治8年2月の大阪会議を経ての政府復帰、そして、
議会制の功労者、伊藤博文、板垣退助、大隈重信の活躍
という展開が、ことごとくスルーされてしまいました。

これも局内障壁の影響なのでしょうか?
困ったもんです。

面白けりゃいいだろうとの意見もあるでしょうが、
私が見たいのは大河ドラマであって、
おんな一代記ではねえのだし。

さて、

期待の西南戦争は、第38回で描かれるようです。
サブタイトルになっているので、大丈夫でしょう。
武士・士族の最期をじっくりと見たいところです。

しかし、どうでしょう?

維新の三傑(木戸孝允・西郷隆盛・大久保利通)が
西南戦争の前後で相次いで命を落としていることから、
彼らの死に様までもまとめて片付けるられるとしたら、
戦そのものの描写は、ごくわずかになるかもしれません。

それはいけません。

三人の死にはそれぞれのドラマがあります。
「西南戦争」とは別に三回に分けてやってもいいくらいです。

ヒストラマを取り戻せ。

※大阪会議(おおさかかいぎ)は、明治8年(1875年)2月11日に明治政府の要人である大久保利通・木戸孝允・板垣退助らが大阪府に集い、今後の政府の方針(立憲政治の樹立)および参議就任等の案件について協議した会議。下交渉として、前月から行われていた個別会談までを含むこともある。征韓論をめぐる明治6年10月政変で政府首脳が分裂し、征韓派の参議・西郷隆盛や江藤新平、板垣退助らが下野し、政府を去った。残った要人は、大久保を中心に内務省を設置。岩倉具視・大隈重信・伊藤博文らが政府の再編を行うが、直後に台湾出兵をめぐる対立から、長州閥のトップ木戸孝允までが職を去る事態に陥り、政府内で薩長閥のトップは大久保だけになってしまう。政府に対する不満は、全国で顕在化し、佐賀の乱はじめ各地における士族の反乱、鹿児島県においては私学校党による県政の壟断を招き、また板垣らは愛国公党を結成して自由民権運動を始動するなど、不穏な政情が世を覆っていた。そのような状況下、岩倉が不平士族の武市熊吉らに襲撃される事件(喰違の変)が発生した。さらに左大臣に就任した島津久光が、政府へ保守的な改革反対の建白書を提出したことに始まる紛議によって、政局が混迷した。政治改革のための財政的基盤となる地租改正も遅々として進まず、次第に大久保も焦り始めていた。当時官界を去り、大阪で実業界に入っていた井上馨は、この情勢を憂い、混迷する政局を打開するには大久保・木戸・板垣による連携が必要であるとの認識を抱き、盟友の伊藤博文とともに仲介役を試みる。木戸との連携の必要性を感じていた大久保もこれに応じ、伊藤に木戸との会談の斡旋を依頼、自ら大阪へ向かう。明治7年(1874年)12月井上は、山口県へ帰っていた木戸を大阪に呼び寄せ、また東京にいた板垣も招いた。こうして大阪に集った大久保・木戸・板垣三者による協議が、井上・伊藤を周旋役として行われることとなった。明治8年1月22日大阪へ到着した木戸と板垣による会談が行われ、民選議院開設についての話し合いが行われた。つづいて29日、木戸と大久保の会談が行われ、木戸の政府復帰が決定される。このように当初は大久保と板垣に直接の接触はなく、三者三様の思惑を抱いていたことが伺える。大久保は、木戸を政府へ復帰させることにより、自らの権力集中に対する批判を和らげる良い機会と考え、この会談に応じたが、板垣に対しては政権に復帰させる必要性を感じていなかったため、当初大久保・板垣両者は面会にいたらなかった。木戸は、三者協議において板垣と連合することにより大久保の専権を抑制し、自らの発言権を回復する意図があったことから、板垣とともに政府に復帰することを強く望んでいた。板垣は、この会議で木戸を利用して議会政治導入を大久保に約束させることを企図しており、議会制導入に積極的であった木戸に、議会早期開設の必要性を説き、木戸を通じて、大久保が立憲体制を政府方針とすることを画策した。大久保は当初、議会制(立憲政治・政党政治など)の導入に対しては消極的であった。なぜなら、第一に、欧米列強の圧力に対抗するための根本的な法整備や国力増進のためには、天皇の権威のもとで薩長が権力を集積し、一貫した政策を継続できる現体制のほうが現実的であること、第二に、『自由民権運動』の看板を掲げながら、思想よりはむしろ感情で行動する失業士族の多い当時の日本の国情を踏まえれば、『政党政治の早期断行には「小党分立による国政の迷走」というリスクが伴う』と、想定できたからである。しかし、木戸を政府に復帰させたいことと、また『板垣を在野で放置して過激派と結びつかれるよりも、政府につなぎとめておいた方が、政府への反対運動を分断できる』と考え、態度を軟化させた。大久保の変化を聞いて手応えを感じた板垣も、立憲政体樹立・三権分立・二院制議会確立などの政府改革の要求が認められたことで協力的な態度に転ずる。また大久保が望んだ木戸の復帰などの人事案などが合意を見たことで三者の思惑がようやく一致した。2月11日、木戸が大久保と板垣を招待する(井上・伊藤が同席)という形式で、北浜の料亭「加賀伊(かがい)」での三者会議が行われた。この会議を「大阪会議」と呼ぶ。ただしこの席では政治の話はいっさい出ず、三者による酒席・歓談のみが行われたという。三者合意による政体改革案は、ただちに太政大臣三条実美に提出され、3月に木戸・板垣は参議へ復帰することとなった。合意に基づき、さっそく4月14日には明治天皇より「漸次立憲政体樹立の詔書」が発せられ、元老院・大審院・地方官会議を設置し、段階的に立憲政体を立てることが宣言された。いっぽう板垣は参議就任により、愛国社創立運動の失敗を招いたため、自由民権派から背信行為を厳しく糾弾され、釈明に追われることとなった。難産の末に確立された新体制であったが、ほどなく地方官会議の権限をめぐって木戸と板垣が対立するようになり、さらに参議と各省の卿の分離問題で、両者は決定的な対立を迎える。折から発生した江華島事件の処理をめぐる意見対立も重なり、板垣はついに参議を辞任した。大阪会議体制はわずか半年にして崩壊する。板垣とセットで入閣した木戸の発言力も必然的に下がり、さらにこの頃より持病の悪化から表立った政治活動を行いにくくなったこともあり、木戸の政府内での地位も低下した。また一時期、板垣と連携する動きを見せた左大臣・島津久光が、自身の主張が認められないため辞表を提出し、岩倉・大久保らが主導権を握る体制に戻った。ここに大阪会議で決定された新体制は完全に崩壊した。結果として大阪会議以前の大久保主導の体制が強化された形で復活した。短期間だったが、この大阪会議で将来的な立憲政体・議会政治の方向性が示された。(Wikipediaより)