『八重の桜』第19回「慶喜の誤算」感想 | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

私は、大政奉還と王政復古の大号令の
区別もつかないほど幕末・明治の歴史に無知でしたが、
今年の大河ドラマのおかげでだいぶ勉強させていただきました。

視聴者に対し歴史に興味を抱かせることが大河ドラマの真骨頂であり、
『八重の桜』は、ヒストラマの部分では上質であると思います。

さて、
これから日本は、以後80年にわたる国内外での戦争の時代に突入します。

それはひとえに、欧米列強による植民地支配を防ぐための戦いでした。

願わくは、これらの戦いを描くドラマにおいては、
数々の戦で命を散らしたご先祖さまに見ていただいても恥ずかしくない
脚本・編集と演技でありますように。

※王政復古(おうせいふっこ)とは、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府・摂関制度の廃止と明治新政府樹立が宣言された政変である。
 幕府体制の行き詰まりを自覚していた徳川慶喜は、土佐藩からの建白に基づく形で、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還を上奏(翌15日に勅許)し、260年以上に渡って江戸幕府(徳川将軍家)が保持していた政権を朝廷に返上する旨を表明した。これにより、討幕の名分を失わせるとともに、朝廷の下に一元化された政権のもと、徳川家が引き続き実権を掌握する事を想定していたといわれる。
 一方、公家の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通らは、親徳川派の摂政・二条斉敬や賀陽宮朝彦親王(維新後久邇宮)が主催する下で徳川中心の新政府が成立されることを阻止するため、満15歳の明治天皇を手中にして二条摂政や朝彦親王を排除し、朝廷を掌握するためのクーデター計画を進めた。大久保らは鹿児島での出兵反対論を抑えるため、中山忠能に依頼して討幕の密勅の降下を求めた。大政奉還の成立によって計画は修正を余儀なくされるものの、薩摩・長州・安芸3藩は藩論をまとめ、政変のための出兵同盟を締結する。
 政変前夜、岩倉は自邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言、協力を求めた。また、二条摂政によって翌日朝にかけて行われた朝議では、毛利敬親・定広父子の官位復旧と入京の許可、岩倉ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある三条実美ら五卿の赦免などが決められた。これが旧体制における最後の朝議となった。朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた尾張藩・土佐藩・薩摩藩・越前藩・安芸藩の5藩兵が京都御所九門を封鎖した。御所への立ち入りは藩兵が厳しく制限し、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、新政府の樹立を決定、新たに置かれる三職の人事を定めた。その上で、改めて開催された三職会議(小御所会議)でいわゆる「王政復古の大号令」を審議、決定した。その内容は以下のとおりである。①(慶応3年10月24日に徳川慶喜が申し出た)将軍職辞職を勅許。②京都守護職・京都所司代の廃止。③江戸幕府の廃止。④摂政・関白の廃止。⑤新たに総裁・議定・参与の三職をおく。
 12月9日18時頃から、御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。山内豊信ら公議政体派は、徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。これに対し岩倉、大原らははじめ押されていたが、山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。この時点で辞官納地(慶喜の内大臣辞任と幕府領の全納)は決まってはいなかったが、岩倉らは徳川政権の失政を並べ「辞官納地をして誠意を見せることが先決である」と主張する。山内らは慶喜の出席を強く主張して両者譲らず、遂に中山忠能が休憩を宣言した。同会議に出席していた岩下方平は、西郷隆盛に助言を求めた。西郷は「ただ、ひと匕首(あいくち=短刀)あるのみ」と述べ、岩倉を勇気付ける。このことは芸州藩を介して土佐藩に伝えられ、再開された会議では反対する者がなく、岩倉らのペースで会議は進められ辞官納地が決した(ただし400万石全納から松平春嶽らの努力で200万石半納になった)。
 この宣言は、12月14日に諸大名に、16日に庶民に布告された。徳川慶喜の将軍辞職を勅許し、京畿における幕府方として朝廷と連携してきた会津藩・桑名藩を追うことで、慶喜が主導する公武合体の新政府を阻止する一方で、王政に「復古」するといいながらも、従来からの摂政・関白以下の朝廷の機構を廃止して五摂家を頂点とする公家社会の秩序をも解体し、天皇親政・公議政治の名分の下、岩倉ら一部の倒幕派公家と五藩(さらには長州藩)の有力者が主導する新政府の樹立を宣言するものであった。
 12月10日、慶喜は自らの新たな呼称を「上様」とすると宣言して、征夷大将軍が廃止されても「上様」が江戸幕府の機構を生かしてそのまま全国支配を継続する意向を仄めかした。また、薩長らの強硬な動きに在京の諸藩代表の動揺が広がった。そこへ土佐藩ら公議政体派が巻き返しを図り、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などの代表が御所からの軍隊引揚を薩長側に要求する動きを見せた。そこで13日には岩倉や西郷は妥協案として辞官納地に慶喜が応じれば、慶喜を議定に任命するとともに「前内大臣」としての待遇を認めるとする提案を行わざるを得なくなった。これによって辞官納地も有名無実化される寸前になり、16日には慶喜がアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・イタリア・プロイセンの6ヶ国公使と大坂城で会談を行ない、内政不干渉と外交権の幕府の保持を承認させ、更に19日には朝廷に対して王政復古の大号令の撤回を公然と要求するまでになった。これに対して、12月22日(1868年1月16日)に朝廷は、事実上徳川幕藩体制による大政委任の継続を承認した。王政復古の大号令は取り消されなかったものの、慶喜の主張が完全に認められたものに他ならなかった。
 だが、この事態に危機感を抱いた薩摩藩の暗躍に幕府側の強硬派が乗せられ、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いに突入することになる。この戦いで薩長側が掲げた錦の御旗に動揺した幕府軍は大敗したばかりでなく「朝敵」としての汚名を受ける事になり、窮地にあった新政府を巻き返させる結果となった。このとき、山内は岩倉に「この戦は薩長の起こした不当な戦である!」と抗議したが、岩倉より「わかった。ならば土佐藩は慶喜側につきなさい」と一喝されて、沈黙してしまったという。その後山内は土佐藩の軍勢を板垣退助に委ね、薩長側と同一歩調を取るようになった。ただ、関東を中心に旧幕府の勢力圏が広がっている中で、朝廷が真の意味で倒幕を実現させるまでにはなお時間を要した。慶応4年4月11日(1868年5月3日)、新政府軍が江戸総攻撃を中止する代わりに、旧江戸幕府の本拠地・江戸城を明け渡させ、幕府機構解体を大きく前進させた。旧幕臣・福地源一郎は、著書『幕府衰亡論』の中で「江戸開城を以て江戸幕府は滅亡した」としている。(Wikipediaより)