『平重盛』を考える | のぼこの庵

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大河ドラマの史上最高傑作『独眼竜政宗』(1987⇒2014再放送)と近年の最高峰『平清盛』(2012)の感想です。
ついでに『江~姫たちの戦国~』(2011)、『八重の桜』(2013)、『軍師官兵衛』(2014)、『花燃ゆ』(2015)の感想も。
あとは爺放談?

「平家の凋落は、平重盛が早逝した時から始まった」と、後年評価されているそうです。

大河ドラマ『平清盛』においても、重盛の死を境に、昇り詰めた平家の転落が描かれるでしょう。

私は、重盛は、「清盛や後白河院に利用され酷使されて過労死した」のではなく、「清盛や後白河院に戦いを挑んで敗れて死んだ」のだと思います。

重盛は、弓馬を執っては、郎党を率いて保元の乱、平治の乱を勇ましく戦い、政争を戦っては、朝廷の公卿達と対等に渡り合いました。

加えてその心根は誠実にして清潔。人びとの信頼を獲得するに値する器量の持ち主でした。
到底、あの清盛の子、あの白河院の孫とは思えぬほど、立派な平家の棟梁でした。

こういう人であれは、決して、精神的に弱いとか思想的に脆いとかいうことはなかったと思います。
ただ、それらの実力と素養をもってしても、清盛や後白河院には通じなかった。

清濁併せ呑み、他を籠絡しつつ、政治、経済、軍事の実権を握ろうとする両巨頭に対抗し、それぞれを御せんとして戦い、そして、敗れた。

治承三年の政変は、重盛という共通の敵がいなくなった清盛と後白河院が共闘を解き、再び敵同士となって、覇を競い合った。

そう思います。

そう思いたい。

※治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は治承3年(1179年)11月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。治承三年のクーデターともいう。治承元年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により後白河法皇と平清盛の関係は危機的状況となったが、この時は清盛も首謀者の藤原成親・西光の処刑と参加者の配流にとどめ、後白河自身の責任は問わなかった。後白河も表面は清盛との友好関係を修復することにつとめ、両者の対立は緩和されたかに見えた。治承2年(1178年)11月、中宮・徳子が高倉天皇の第一皇子を出産する。清盛は皇子を皇太子にすることを後白河に迫り、12月9日、親王宣旨が下されて言仁(ときひと)と命名され、15日、立太子した。皇太子周辺から院近臣は排除され、後白河は平氏に対して不満と警戒を強めることになる。治承3年(1179年)6月17日、清盛の娘である白河殿盛子が死去する。盛子の管理していた摂関家領は基通(基実の子)もしくは、盛子が准母となっていた高倉天皇が相続すると思われていたが、後白河はその所領の全てを没収してしまった。7月29日には平重盛が死去するが、院近臣の藤原季能が越前守となり、仁安元年(1166年)以来の重盛の知行国が没収されてしまう。しかも、関白・松殿基房の子で8歳の師家が20歳の基通を差し置いて権中納言になった。この人事は自らの娘・完子を基通に嫁がせ支援していた清盛の面目を潰すものだった。さらに親平氏の延暦寺でも反平氏勢力が台頭して内部紛争が起こるなど、情勢は予断を許さないものになった。治承3年(1179年)11月14日、豊明節会の日。清盛は数千騎の大軍を擁して福原から上洛、八条殿に入った。15日、基房・師家が解官され、正二位に叙された基通が関白・内大臣・氏長者に任命された。16日、天台座主・覚快法親王が罷免となり親平氏派の明雲が復帰、17日、太政大臣・藤原師長以下39名(公卿8名、殿上人・受領・検非違使など31名)が解官される。諸国の受領の大幅な交替が行われ、平氏の知行国はクーデター前の17ヶ国から32ヶ国になった。18日、基房は大宰権帥に左遷の上で配流、師長・源資賢の追放も決まった。20日、後白河は清盛の指示で鳥羽殿に移され幽閉状態となり、後白河院政は停止された。清盛は後の処置を宗盛に託して、福原に引き上げた。後白河の第三皇子である以仁王も所領没収の憂き目にあい、このことが以仁王の挙兵の直接的な原因となった。治承4年(1180年)2月、高倉天皇は言仁親王に譲位(安徳天皇)、平氏の傀儡としての高倉院政が開始された。今回の事件の原因として、越前国の問題・平盛子亡き後の摂関家領の問題・松殿師家の権中納言昇進問題がある。越前国は鹿ケ谷の陰謀の処理を巡って清盛と不協和音を抱えたまま死去した重盛の知行国であった。しかも、没後にその遺児の維盛ではなく弟の宗盛が後継者となったことによって、宗盛と小松家の対立が危惧される中で起きた事件であり、対応を間違えれば平氏一門が分裂する恐れさえあった。後者の2つは摂関家継承を巡る問題で、平氏とつながりの深い近衛家への摂関家継承は、その実現によって皇家 - 近衛家(摂関家) - 平氏の連帯が可能となるもので、清盛と後白河の相互信頼の象徴であるとともに、今後の平氏政権の帰趨に関わるものであった。更に鹿ケ谷の陰謀の前後から続く後白河と延暦寺による「王法」と「仏法」の衝突の問題、後白河の近臣で一定の武力を有した頼盛との確執など、清盛と後白河の対立は個人的なものに留まらず、平氏一門の分裂、更には国政全般まで広がりかねない深刻な構図になっていた。清盛はこうした閉塞状況を打破し、治天の君である後白河の責任を追及して政治的な引退を促すために行動を起こしたと推測される。更に頼盛との間に和戦両方の可能性が存在したために、大軍をもって都を制圧する必要が生じたと見られている。後白河を幽閉して政治の実権を握ったことは、多くの反対勢力を生み出した。関白・基房の配流に反発する興福寺、後白河と密接なつながりをもつ園城寺が代表である。さらに新しく平氏の知行国となった国では、国司と国内武士の対立が巻き起こった。中央で一掃された対立は地方で激化することになる。(Wikipediaより)